菊花開(きくのはなひらく)

 「菊花開」は「寒露」の次候(10/13~17)。野菊の花が咲き始める頃の意。pan> 

 評は全て「茂吉秀歌」(佐藤佐太郎著より)。以下の写真10葉は10/9鹿島神宮で。

 s-鹿島神宮20171009

こがらしも今は絶えたる寒空よりきのふも今日も月の照りくる

 1933年、51歳のときの作。「こがらしも今は絶えたる」は、一日のこがらしが吹きやんだというのではなく、こがらしの季節が過ぎたというのである。「今は絶えたる」という言い方、「きのふも今日も」との関連において、そのように受け取れる。力量のある作家として当然のことだが、こまかな点まで神経がゆきわたっており、しかも言葉が永く切実にひびいている。眼に見えるものは月の光であり、晴れた夜空である。それに対して眼に見えない「こがらしも今は絶えたる」という一二句を据えた。これが自然の秩序を見たというものである。

 s-鹿島神宮20171009②

 たえまなくみづうみの浪よするとき浪をかぶりて雪消(ゆきけ)のこれり

 榛名湖の汀の歌。水に接して白雪の消え残っているのが自然のすがたの味わいである。不間断に寄せている浪の一つを捉えるように「とき」といい、浪を「かぶりて」といって、映画などの大写しの手法のように言葉の推移する趣に味わいがある。その韻文としての単純化された言い方に主観のひびきもある。

 s-鹿島神宮20171009③

 もも鳥のこゑする山のあかつきに大き聖はよみがへりたまふ

 比叡山での歌。「もも鳥」は百鳥、たくさんの鳥。「大き聖」は「大聖」、最澄伝教大師。茂吉は「伝教大師この暁天にあらはれたまふといふ気持ちである」といっている。この歌は清澄で塵世のよごれがないから、茂吉は色紙や半紙などにしばしば書かれた。

 s-鹿島神宮20171009④
 
 ただひとつ惜しみて置きし白桃(しろもも)のゆたけきを吾は食ひをはりけり

 果肉も甘未も香気もこめて、ただ「ゆたけき」といったのが叙情詩としての力量であり、暗示的な味わいである。

 s-鹿島神宮20171009⑤
 
 弟と相むかひゐてものを言ふ互(かたみ)のこゑは父母(ちちはは)のこゑ

 ものをいう自分の声、弟の声のなかに父の声があり母の声がある。肉親の絆というものを最も強く感じる瞬間がここにある。「互のこゑは父母のこゑ」という強い断定のなかに、断定のゆえに詠嘆がこもっている。短歌は詠嘆の形式だというが、その実行の美事な例はこの作者にある。

 s-鹿島神宮20171009⑥

  陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

 1934年の作。茂吉は「6月4日、舎弟高橋四郎兵衛が企てのままに蔵王山上歌碑の一首を作りて送る」と記している。「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ」という上句が蒼古として大きい。さらにいえば「聳えたまふ」というのは、霊山の麓に生を享けたこの作者でなければいえないだろう。虚にいて実を行うというとはこういう句である。渾沌とした高山の霊気を感じさせる。

 s-鹿島神宮20171009 ⑦

 ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり

 街頭嘱目の一首。感情のない機械であるトラックの動きの中に、たとえば人間の恥じらいのようなものを認めたのである。山川草木鳥獣以外の近代的無生物を対象に感情を移入したのが特殊でもあり新しくもある。

 s-鹿島神宮20171009⑧
 
 ゆふぐれのかぜ庭土をふきとほり散りし百日紅(ひゃくじつこう)の花を動かす

 「散りし百日紅の花を動かす」の「散りし」などは、確かにいうことが歌の味わいであることをいまさらのように思わせる。いままで人のかえりみなかった美しさの出ている歌である。

 s-鹿島神宮20171009⑨

  青葉くらきその下かげのあはれさは「女囚携帯乳児墓」(じょしゅうけいたいにゅうじのはか)
 
 東京品川の東海寺に散策した時の作。茂吉曰く、繁った若葉に隠されるやうにして、この「女囚携帯乳児墓」といふのがあるのを見つけた。ある篤志の婦ででもあらうか、悪因縁によって罪になった女囚に乳児がゐて、それが育たずに死んだのをあはれに思ひ、菩提を弔ふために建てた、いはば共同墓地である。この墓石の「女囚携帯乳児」いとふ文句が簡潔で哀深いのでその儘取つて用ゐた。

 s-鹿島神宮20171009⑩

 北とほく真澄がありて冬のくもり遍(あま)ねからざる午後になりたり

 1937年作。「北とほく真澄がありて」という上句は、見た実質だが、言葉が的確で、しかも簡潔で味わいがある。「とほく」など常凡のくわだておよばない言葉だろう。さらにいえば、上句の実質は人は見ることができる。しかし、「冬のぬくもり偏ねからざる」とまではいい得るとは限るまい。「見る」とは、このように現象の奥にあるものを見るのだということを人に考えさせるだろう。

 s-朝日2013
 以下の写真は以前撮ったもの。天候不順でこのところ撮るチャンスがないので。

 蕗の薹の苞(つと)の青きがそよぐときあまつ光を吸はむとぞする

 1940年作。鉢植えにして部屋に置いてある蕗の薹を詠んだものだが、ありなしの風が部屋に通って、蕗の薹の苞の葉のようなものがそよぐのだろう。蕗の薹が意志的に、日光に喜んで反応するように受け取っている。これもものを見る一つで、ゆとりある柔軟な観入と表現とは、おいおい老境に向かおうとする作者を感じさせる。

 s-水滴2013

 沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ

 1944年作。「沈黙」は戦後の悲哀に耐える作者の態度を代表する形態で、意識された「沈黙」であった。画家の描いた生物に対するように、「百房の黒き葡萄」という部分だけでも何かがある。その上「雨ふりそそぐ」という絵画にない「時間」が添っている。

 s-コスモス2013

 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

 1946年作。歌は蒼古で新鮮な万葉調で、単純に線が太い。「逆白波」という造語がいいが、一首の味わいは、この語によって簡潔のうちに豊富になっている。作者にはすでに「東風ふきつのりつつ今日一日最上川に白き逆浪たつも」(1928年作)という歌がある。

 s-ススキ2014

 老いづきてわが居る時に蝉のこゑわれの身うちを透りて行きぬ

 1950年、東京の自宅にいるときの作歌。作者は数え年69歳で、健康状態も良くなかったから、身に迫ったものとして「死」を思うのである。聞こえる「蝉の声」は、さながら自分の肉体に沁み、肉体を通りぬけて行くのだという。

 s-オクラ2016

 この山にとらつぐみといふ夜鳥啼くを聞きつつをればわれはねむりぬ

 「とらつぐみ」はツグミの仲間で、そのうちでは最も大きく、黄褐色の黒い斑が虎斑のようにあるので「虎鶫」という。「とらつぐみという夜鳥」といえば、そこに平凡ではない異常な感じがある。しかし、作者はその寂しい歌声を愛して、聞いているうちにいつか安らかに眠りにおちていったのであろう。安らかでもあるけれども寂しい歌である。心臓の関係かどうか、この夏は「夜もすがら寝ぐるしくて」という状態だった。

 s-紅葉2013

 10/11に春日部の自宅から掛け布団や冬服を持ってきたが、これが大正解。急に寒くなった。10/14は日帰り職場旅行で仙台へ。うみの杜水族館、キリンビール仙台工場などを見てきた。というか、往復のバスの中は酒場・・・。特に帰路はカラオケスナック状態・・・。

 皆さま、お健やかにお過ごし願います。

鴻鴈来(こうがんきたる)

 「鴻鴈来」は24節気「寒露」の初候(10/8~12)。冬鳥が飛来する時季。真鴈に菱喰、水辺に羽を休める姿が見られる頃の意。
 本日の写真は、アパートのお隣さんのお庭(撮影許可取得。トウモロコシ、キュウリ、ニンジン、レタス等々、しょっちゅう頂いている)と「わかぐり運動公園」の周辺で撮った。 
 さて、今回から斎藤茂吉[1882年(明治15年)~1953年(昭和28年)]。生涯に17,800首を詠んだ巨人。教本は「茂吉秀歌」(佐藤佐太郎著・岩波新書・1979年1月10日発行の第3刷・上下2巻、各320円・280円)


 いちめんに唐辛子あかき畑みちに立てる童(わらべ)のまなこ小さいし

 1912年作(30歳)。そのころ茂吉は「ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ」という歌も作っている。強烈な唐辛子の赤色という原色の中に立つ「まなこ小さい童子」、まさしくゴオガンの世界か。

 s-アルストロメリア20171008

 のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり

 1913年作。母の臨終が迫っているときの歌。作者は「世尊が涅槃に入る時にも有像がこぞって嘆くところがある。私の慈母が現世を去らうという時、のどの赤き玄鳥のつがいひが来てゐたのも、何となく仏教的に感銘が深かった」と述べている。 
 茂吉は15歳(1896年)で浅草の精神科医斎藤紀一の養子候補として上京し、後年娘婿となるが、この歌は実家の母に捧げたもの。

 s-バラ20171008

 ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しくふりにけるかも

 1914年作。秩父山中の作と作者は言っている。養母勝子(斎藤紀一氏夫人)の郷里が秩父の皆野だった縁か。この年、養家斎藤氏の長女輝子(19歳)と結婚。
 
 s-トンボ20171008

 あまがへる鳴きこそいづれ照りとおほる五月の小野(をぬ)の青きなかより

 1916年作。佐太郎は「二句切れの形態が、『鳴きこそいづれ』と清く緊まっていて、そして『照りとほる五月の小野の青きなかより』という、諧調音が実にこころよく、朗らかなうちにかすかに悲しみがただよっている。」と評している。
  
 s-チョウ20171008

 電燈の光とどかぬ宵やみのひくき空より蛾はとびて来つ

 1917年作。佐太郎は「蛾が『電燈の光とどかぬ宵やみ』の向こうから飛んできたという感受にはいままで人の見なかった新しさがある」と評している。この年の12月、長崎医学専門学校へ赴任。長崎での生活は3年3ヶ月に及ぶ。
 
 s-ダリア20171008

 こほりつつ流るるにかあらし豊かなるドウナウのみづの音のさびしさ

 1922年1月、ウィーン大学神経学研究所へ。ここで1年半、留学生として暮らす。1923年4月、論文「麻痺性癡呆者の脳カルテ」が完成。同年7月、ミュンヘン大学に転学し、24年10月医学博士の学位を得て帰国の途に就く。

 わが父が老いてみまかりゆきしこと独逸の国にひたになげかふ 

 1923年7月、実父守谷伝右衛門が逝去。9月には新聞で関東大震災の発生を知る。

 s-サフラン20171008

 おどろきも悲しみも境過ぎつるか言絶えにけり天つ日のまへ

 1924年11月、日本へ向けてマルセイユを出港。12月31日、婚家の青山脳病院全焼の無線電報を受ける。住居、財産、書籍が灰燼に帰したばかりか、多数の入院患者も焼死。
 
 s-マルバコウ20171008

 ひかりさす松山のべを超えしかば苔よりいづるみづをのむなり

 1925年5月、近江番場の蓮華寺に薩応和尚を見舞ったときの作。薩応和尚は、茂吉の郷里の山形県堀田村金瓶の宝泉寺の住職だった人で、茂吉は幼少のときから親しんで少なからぬ影響を受けた。

 s-ホトケノザ20171008

 さ夜けて慈悲心鳥(ぶっぽうそう)のこゑ聞けば光にむかふこゑならなくに 

 1925年5月末、木曽福島へ。茂吉の自註に曰く「さうして夜鳥のこゑは鶯のごとき光明に向かふ性質ではなくて、闇黒にむかって沁み徹るやうな性質に思われる。そこで、『光に向かふこゑならなくに』といひ表した」。

 s-紫の花②20171008

 浅草のきさらぎ寒きゆふまぐれ石燈籠にねむる雞(とり)あり

 1,928年作。佐太郎の評では「『きさらぎ寒きゆうまぐれ』というあたりは、『きさらぎ』も『ゆうまぐれ』でも実語であるが、声調のうえではかえって虚語のような働きをしている。実語の多い歌だが、声調は固くならずに流動しているのはそのためである。」

 s-何かな20171008

 よひ闇のはかなかりける遠くより雷(らい)とどろきて海に降る雨

 1931年、熱海で療養中の作。佐太郎の評では「『はかなかりける』からすぐ『遠くより』と続くところ、『遠くより』からすぐ『雷とどろきて』と続くところは実に簡潔でいい。散文に替えることのできない韻文の味わいである。結句の『海に降る雨』がまた簡潔である。現実そのままをいってこのように簡浄で厚みがあるのは、やはり表現の極致といっていいだろう。」

 s-黄色の花20171008

 あまつ日の白き光のまばゆきに合歓の延ぶるはあはれなりけり 

 1932年作。佐太郎の評では「真夏にのびる若葉・若芽にもいままで人の注目しなかった『あはれ』がある。思いきり言葉をのべて息長くいって、しかも『白き光のまばゆきに』というように充実しているのがこの作家の歌である。この句から、単に若芽がのびているというだけでなく、それが日光に透きとおっているありさまさえうかがえるだろう。」
 
 s-赤い新葉20171008

 燕麦(からすむぎ)のなびきおきふす山畑(やまばたけ)晴れたりとおもふにはや曇りける 

 同年作。弟高橋四郎兵衛と共に北海道天塩国志文内に次兄守谷富太郎を訪問した。8/10、上野を発って山形・上ノ山へ。8/12、上ノ山発、函館、旭川を経て、8/14、宗谷本線佐久駅着。雨の中を4時間歩いて志文内に到る。富太郎は僻村の医師をしているた。
  
 s-クリ2017108

 過去帳を繰るがごとくにつぎつぎに血すぢを語りあふぞさびしき 

 同じく志文内で。「16,7年振りの会合ナリ」とのこと。親戚の誰彼の消息を語り合ったが、「年老いつつ鴉を打ちて食ひしとふ貧しきもののことをかたりつ」、「おとうとは酒のみながら祖父よりの遺伝のことをかたみにぞいふ」という作もある。
 
 s-エノコログサ20171008

 山がはのみづの荒浪みるときはなかに生(い)くらむ魚(うお)しおもほゆ

 同年8/23、富太郎、四郎兵衛と共に層雲峡に遊ぶ。「山がは」は層雲峡を流れる渓流。この作者は木曾の山中に行っても、最上川の岸辺に立っても、そこに棲む魚のことを思う。

 s-サクラ20171008

 嘴(はし)ながく飛びゆく鵜等をみてをればところ定まらず水にしづみき

 同年9月、北海道旅行の帰途、十和田に寄ったときの作。佐太郎の評では「鵜は長い嘴の先が鋭く曲がっている。それをいったのが「嘴ながく」という一句だが、すぐ『飛びゆく鵜等を』と二句に続く表現は、平凡な歌人にはできないところだろう。こだわりなくたけだけしい行動を写した下句も見事である。」

今回は「茂吉秀歌」の上巻から。次回は下巻へ。2回では収まらないかな? それぞれの歌に背景の説明、或いは佐藤佐太郎の評を付記したが、やはり眼前の短歌だけでは解釈・味わいが浅くなると思うので・・・。

 10/7は土浦の花火大会。3~4km離れたところから見たが、辺りはレンコン田。視界を遮るものはなく、十分に楽しめた。上空330mまで上昇し、直径300mの大輪を咲かせる10号玉は圧巻。来年は桟敷席で見るぞ!
 皆さま、急に涼しくなりました。お気をつけてお過ごしください。

 
 

 

蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)

「蟄虫坏戸」は24節気「秋分」の次候(9/28~10/2)。虫たちが冬支度を始める頃の意。

 9/30はいい天気。アパートから10kmほどの距離にある「三ツ石森林公園」へ。散策路は手入れが行き届いている。

 さて、今回も啄木。このところ寝る前に啄木に関する評論を読んでいる。飽きない。ただ、暗い・・・。今回もs先輩から植物名をご教示いただきました。

 こしかたよ破歌(やれうた)ぐるま綱かけて悲哀の里を喘ぎ過ぎしか
 s-逆光②20170930
 
 うたふごと駅の名呼びし  柔和なる  若き駅夫の眼をも忘れず 
 s-逆光③20170930

 あめつちに  わが悲しみと月光と  あまねき秋の夜となれりけり
 s-三ツ石森林公園20170920

 人といふ人のこころに  一人づつ囚人がゐて  うめくかなしさ
 s-赤い実20170930
 ガマズミ。

 やはらかに積もれる雪に  熱(ほて)る頬(ほ)を埋むるごとき  恋してみたし
 s-白い花20170930
 ゲンノショウコ。

 あたらしき背広など着て  旅をせむ  しかく今年も思ひ過ぎたる
 s-トンボ20170930
 イトトンボ。

 ある日のこと  室(へや)の障子をはりかへぬ  その日はそれにて心なごみき
 s-黄色の花20170930
 キバナアキギリ。

 巻煙草口にくわへて  浪あらき  磯の夜霧に立ちし女よ 
 s-下り階段20170930

 不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて  空に吸はれし  十五の心
 s-逆光20170930

 啄木は明治19年(1886)2月20日、岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村曹洞宗日照山常光寺の長男として生まれる。
 明治28年(1895)、岩手郡渋民尋常小学校卒。首席の成績。同年盛岡高等小学校に進学。明治31年(1898)、盛岡尋常中学校(翌年盛岡中学校と改制)へ進学。128名中10位の高成績。
 明治35年(1902)、4年生の期末の成績は119名中82番。何とか5年生に進級したが、7月の試験でカンニングをし譴責処分を受ける。同年10月1日、雑誌「明星」に『血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここにさけぶ秋』が掲載される。10月27日「家事上の都合」を理由に盛岡中学校を退学し、文学で身を立てるべく上京。
 明治37年(1904)2月、父石川一禎が宗費113円余の滞納により、渋民村宝徳寺住職罷免の処分を受ける。明治38年堀合節子と結婚し、明治40年には長女京子が誕生するも、父親一禎が家出し一家離散。啄木は妻子を実家に預けて妹光子と函館へ。母は渋民村の知人に託した。明治43年には長男真一が1歳で早逝。明治45年(1912)に没するまで、啄木は貧窮と病弱と戦いつつ奮闘。明治46年5月、妻節子も肺結核で没した。(現代詩読本「石川啄木」・思潮社による)


 啄木には心安らぐ日があったのだろうか。或いは、歌を詠むことだけが救いか。次回は斎藤茂吉を予定。

 皆さま、お健やかにお過ごし願います。

 

鶺鴒鳴(せきれいなく)


「鶺鴒鳴」は24節気「白露」の次候(9/12~17)。長い尾を上下に振りながら水辺を歩く、スマートな鶺鴒。この鳥が鳴いて彼岸花が咲くと、秋もそろそろ本格的。9/15はいわきへ。いつ行っても田人路はいい。緑の中にどっぷりつかって、森林浴。

 今回も石川啄木。今回のネタ本は思潮社「現代詩読本 石川啄木」(昭和58年7月刊)。その本の中に、加藤郁乎が「啄木ワルツ」と題する小論を寄せている。曰く、『沢山の責苦からついばまれつづけた啄木、すなわちタクボクチョウ、すなわちカッコウ調の歌を思い出したり唱和したりしていると、ずいぶん個人的な感慨が誘い出され、連想の輪がカチャカチャと音をひびかせながらもつれ合うような、ワルツの一口も囀りたくなってくる。』

 今回も植物名をS先輩にご教示いただきました。青字で記してあります。また、6~9枚目の写真の記載ミスをはっぴー先輩に教えていただき、訂正しました。

 ふるさとの寺の畔(ほとり)の  ひばの木の  いただきに来て鳴きし閑古鳥!
 s-ソバ畑20170915
 ソバ畑。

 馬鈴薯のうす紫の花に降る  雨を思へり  都の雨に
 s-ソバの花20170915
 ソバ。

 空知川雪に埋れて  鳥も見えず  岸辺の林に人ひとりゐき
 s-黄色の花20170915
 キツリフネ。 

 馬鈴薯の花咲く頃と  なれりけり  君もこの花を好きたまふらむ
 s-紫の花20170915
 ツリフネソウ。

 浅草の夜のにぎわいに  まぎれ入り  まぎれ出で来しさびしき心
 s-ヤマハギかな20170915
 マルバハギか。

 世のはじめ  まず森ありて  半神の人そが中に火や守りけむ
 s-黄色の花②20170915
 メマツヨイグサ。

 壁ごしに  若き女の泣くをきく  旅の宿屋の秋の蚊帳かな
 s-黄色の花③20170915
 ナガミノツルキケマン。

 愁ひ来て  丘にのぼれば  名も知らぬ鳥啄(ついば)めり赤き茨(ばら)の実
 s-青い花20170915
 ヤマハッカ

 盛岡の中学校の  露台(バルコン)の  欄干(てすり)に最一度(もいちど)我を倚らしめ
 s-白い花20170915
 アケボノソウ

 
  札幌に  かの秋われの持てゆきし  しかして今も持てるかなしみ
 s-白い花②20170915
 ゴマナかな?

 以下は9/16、いわきの農家の庭先。

 かなしきは小樽の町よ  歌ふことなき人人の  声の荒さよ
 s-ヒバかな20170916
 カイヅカイブキの枝変わり。

 何がなしに  頭のなかに崖ありて  日毎に土のくづるるごとし
 s-何かな20170916
 モミジアオイの果実。

 明日になれば皆嘘になる事共と知りつゝ今日も何故に歌よむ  
 s-紫の花20170916
 ムラサキツユクサ。
  
 以下3首は畏友ビッキさん撰。
 
 病のごと  思郷のこころ湧く日なり  目にあおぞらの煙かなしも 
 s-鶏頭2017016
 ケイトウ。

 曠野(あらの)ゆく汽車のごとくに  このなやみ  ときどき我の心を通る
 s-紫蘇の花20170916
 シソ。

 とるに足らぬ男と思へと言ふごとく  山に入りにき  神のごとき友
 s-青い花②20170916

 今回の結びに吉井勇(啄木と同い年生まれで、親交があった)の2首を。
 
 啄木と何かを論じたる後のかの寂しさを旅にもとむる
 
 夏は来ぬ亡き啄木が恋がたり聴きし夜に似る星空にして

 皆さま、お健やかにお過ごし願います。

草露白(くさのつゆしろし)

「草露白」(9/7~11)は24節気「白露」の初候。秋の訪れとともに、草に白露が光る頃の意。

 昨日(9/9)、アパートから40kmほどのところにある「涸沼自然公園」へ。春日部の内牧公園でよく見ていた山野草がそこここに咲いており、満足、満足。これからは渡り鳥も来るとのこと。

 さて、今回は石川啄木。出典は『石川啄木 「天才」の自己形成』(草壁焔太著・講談社現代新書・昭和55年6月刊)。以下の7首は、啄木が明治41年6月23日~25日の間に詠みあげたもの。

 わが胸の底の底にて誰ぞ一人物にかくれて潸々(さめざめ)と泣く 
 s-ハギ20170909
 ヤマハギ(動・植物名はS先輩からご教示いただきました。)

 己が名を仄かによびて涙せし十四の春にかへるすべなし
 s-白い花20170909
 ヒヨドリバナ。

 東海の小島の磯の白砂に我泣きれて蟹と戯る
 s-白い花②20170909
 ペパーミントかな。

 灯(ともし)なき室に我あり父と母壁の中より杖つきて出づ 
 s-トンボ20170909
 ハグロトンボ。

 津軽の海その南北と都とに別れて泣ける父と母と子
 s-黒い実20170909
 アカメガシワ。

 我が母は今日も我より送るべき為替を待ちて門に立つらむ
 s-紫の花20170909

 たはむれに母を背負ひてその余り軽きに泣きて三歩あるかず
 s-紫の花②20170909

 明治43年、土岐善麿のローマ字歌集「NAKIWARAI」の影響を受けた啄木は、自分の歌をすべて3行にすることにした。
 (以下は3行に分かち書きしないが、原作はスペースの部分で行替えされている。)

 砂山の砂に腹這ひ  初恋の  痛みを遠くおもひ出づる日
 s-紫の花③20170909
 ツルマメ。

 いのちなき砂のかなしさよ  さらさらと  握れば指のあひだより落つ
 s-小さな花20170909
 キツネノマゴ。

 かにかくに渋民村は恋しかり  おもひでの山  おもひでの川
 s-何かな20170909

 子を負ひて  雪の吹き入る停車場に  われを見送りし妻の眉かな
 s-ミズキかな20170909
 ガマズミ。

 やはらかに柳あをめる  北上の岸辺目に見ゆ  泣けとごとくに
 s-足長族20170909足の長いほうが妻です。

 函館の青柳町こそかなしけれ  友の恋歌  矢車の花

 この新書のカバーの宣伝文句は以下の通り。
 「ふるさとのなまりなつかし・・・」「はたらけどはたらけど猶・・・」、啄木の歌ほど多くの人々に愛誦されてきた歌はない。それは自我の微妙な内面の動きを鋭くとらえ、生活の確実な手ざわりを伝えてくれる。その背景には、現実を見すえる卓越した意識力があった。
 明治という圧縮された近代化のなかで、ひたすら「天才」としての自己形成の道を走り抜けた啄木。たえざる反逆、挫折、さいはての放浪から、つかの間の"成熟"へと至る。苦闘に満ちた短い生涯の真実を深い共感をこめて描く。

以下、余談。明治45年3月31日、金田一京助は病床の啄木を訪問し、3ヶ月掛けて書いて得た原稿料30円を見舞いとして差し出している。同年4月10日頃、啄木は「2円の薬代もない」と牧水に訴えている。そして啄木は4月13日、27歳で逝去。牧水は啄木の最後を看取り、葬儀も執り行った。
 ちょうどそのころ、志賀直哉は父親から志賀家の財産が60万円に達していることを告げられている。現在の貨幣価値で言えば60億円ほどの由。以降、志賀直哉は悠々と遊びつつ、悠々と小説を書いた。

 次回は斎藤茂吉かな。皆さま、お健やかにお過ごし願います。
プロフィール

kantarou+4

Author:kantarou+4
週末の近郊里山徘徊を楽しみつつ、足腰の衰えを防止しています。読書やドライブも好きです。

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