澌尽礱磨(しじんろうま)
澌尽礱磨(しじんろうま)。「澌尽」は尽きてなくなること、すべてなくなること。「礱磨」は摺るとか砥ぐの意。漱石は『草枕』の中で「両者の間隔がはなはだしく懸絶するときには、この矛盾はようやく澌尽礱磨して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかもしれぬ」と書いている。(今年のタイトルは『草枕』の難解熟語)
今回の短歌は正岡子規。テキストは「わが愛する歌人 第四集」(有斐閣新書・昭和53年刊)。解説は宮地伸一。
正岡子規、慶応3年9月17日~明治35年9月19日)。愛媛県出身。明治16年松山中学中退後政治家を志して上京。大学予備門に学び、東京帝大文科に入学したが中退し、明治25年新聞「日本」に入社。明治28年日清戦争に従軍記者として渡満。帰国の船上で喀血、以後病床に伏す。明治31年「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に掲載。病床に「根岸短歌会」をおこして、のちの写実主義短歌の源流をなした。
もののふの屍(しかばね)をさむる人もなし菫(すみれ)花咲く春の山陰
赤き牡丹白き牡丹を手折(たおり)けり赤きを君にいで贈らばや
明治31年、子規は歌論「歌よみに与ふる書」を発表し、続いて実作「百中十首」を世に示した。これを以っていわゆる短歌革新に立ち向かったのである。明治29年、30年は殆ど歌を詠んでいないが、その休止が契機となったのか、31年の大活動が始まり、「歌よみに与ふる書」は2月12日から10回、「百中十首」は2月27日から11回発表した。
大原の野を焼く男野を焼くと雉(きぎす)な焼きそ野を焼く男
古庭の萩も芒も芽をふきぬ病癒ゆべき時は来にけり
これらも「百中十首」から。百首の中から十首を、毎回選者を変えて選ばせたもの。子規にとって明治31年は生命の大いに躍動した年であり、輝かしい仕事をした年なのである。それまで休火山であったのを、突如として大爆発して天に高く噴煙を冲したという趣である。
霜防ぐ菜畑の葉竹はや立てぬ筑波根颪(おろし)鴈を吹く頃
人住まぬいくさのあとの崩れ家杏の花は咲きて散りけり
以上の6首は、「百中十首」の1回目の10首から。
くれないの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる (明治33年)
こういう歌が教科書のなかにあった。これは中学生の心に自然と沁み込んでいく写生の歌で、「針やはらかに春雨のふる」という細かい表現に心惹かれたが、それよりも一首全体ののびやかな調べが魅力的だった。
げんげんの花咲く原のかたはらに家鴨(あひる)飼ひたるきたなき池あり(明治33年)
これは、長く病床にいた子規が、たまたま心地のよい日に人力車に乗って亀戸まで外出した時の作。茂吉は『子規短歌合評』という本の中で、「この歌も平凡で、あたり前で、『きたなき池あり』などは人を馬鹿にしてゐるなどと評する向きも出現してゐるが、この『人を馬鹿にした』やうな平凡事が、従来の歌人には見えなかったのである。・・・・・身近くの『きたなき池』一つあるのが見えなかった歌人等の群れの中に、真の『きたなき池』が見えて、それを現に歌に表現し得た人は正岡子規であつたことを忘却してはならない」と言っている。
若松の芽だちの緑ながき日を夕かたまけて熱いでにけり(明治34年)
茂吉は昭和8年に、古事記以下明治の歌人までの百首を選んで解説した『新鮮秀歌百首』を刊行。子規からただ一首選ぶとすればこの歌になるということを茂吉は教えてくれている。茂吉は『近代秀歌五十首選』でも、明治以後の歌人五十人から一人一首を選んでいるが、子規のはやはりこの歌である。
臥しながら雨戸あけさせ朝日照る上野の森の晴をよろこぶ(明治32年)
実験的な意図が表面に浮き出ないで、「新」よりも「真」の要素が次第に色濃く出てきていると思う。平淡のうちに至味をたたえたもので、子規調とも言うべきものを成就している。子規に学んだ伊藤左千夫も長塚節も、他の門人も結局こういうさわやかな調子は受け継がなかったというべきではなかろうか。
車で15分ほどの山道を歩いていたら、崖下の大池の水中に黒い影が見えた。岩かと思って見ていると動いている。
ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ(明治33年)
調子がのびやかで、内容が純粋でここまで来れば申し分ない。「百中十首」の一種のごたごたした俳諧調が、2年後にはもうこんなに澄んでいるのである。これは万葉集を内面的に摂取した現われと見ることができようが、驚くべき変化だ。
魚たちが移動を始めた。
瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり(明治34年)
明治34、35年は病況が悪く、気力体力も衰えて、どしどし歌を発表するということもなくなった。しかし稀に作る歌はますます純粋になった。茂吉は「此歌を説くこと既に幾たびになるかを知らない。そこで此歌は有名になった。するとその反動として此歌はつまらぬ歌だといひ出した者が出て、それに追随する者さへ出た。目のあたり末世歌壇の悲惨な気持をおこされる事実であった」と言っている。
子規が身動きもできない病床にあって、『仰向に寝ながら左の方を見れば、机の上に藤を活けたる』という状況なのだから、『たたみの上にとどかざりけり』というのは一つの新しい発見であり、詠歎であるのはよく分かるが、何だか『みじかければ』『とどかざりけり』というきちっとした照応が気になったので、いまでもぴんと来ない。
いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春行かんとす(明治34年)
くれなゐの薔薇(うばら)ふふみぬ我が病(やまい)いやまさるべき時のしるしに(同年)
これらの2首を含む歌には、子規の「心弱くとこそ人の見るらめ」とのことわりめいた言葉が付いている。左千夫は「見るも涙の種なれども、道のためとて掲げぬ」と記している。子規の最高傑作である。既掲の「若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱いでにけり」もこの時のもの。
なまよみのかひのやまめは、ぬばたまの夜ぶりのあみに、三つ入りぬその三つみなを あにおくりこし(明治35年)
*「なまよみの」は「甲斐」にかかる枕言葉。「なまよみの」については諸説あるが、都留文科大学の鈴木武晴さんは山並みの姿がよいと説いている。
くれなゐの旗うごかして、夕風の吹き入るなべに、白きものゆらゆらゆらぐ 立つは誰ゆらぐは何ぞ、かぐはしみ人か花かも、花の夕顔(同年)
子規が死んだのは明治35年9月19日であるが、8月から9月にかけては短い長歌を幾つか作った。こんな純粋で透明な感じのする長歌は、和歌史上にも見られない。
麩の海に汐みちくれば茗荷子の葉末をこゆる真玉白魚
この歌は死ぬ半月ほど前の9月3日、新聞「日本」社長であり、隣家に住む陸羯南(くがかつなん)に宛てたもの。隣の陸家より碗盛りを御馳走されたのであろう。汁碗の様子を海にたとえて戯れている。こういう笑いの歌も若い時からの子規の持つ一面であった。この歌は新古今集の『夕月夜潮満ちくらし難波江の芦の若葉を越ゆる白波』を踏まえたもの。
このあと子規は『糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」等々の俳句は詠んだが、短歌はとうとう残さなかった。
今回は3冊の紹介。
小川洋子『ことり』(朝日文庫)。人間の言葉は話せないけれど、小鳥のさえずりを理解する兄と、兄の言葉を唯一わかる弟。二人は支えあってひっそりと生きていく。やがて兄は亡くなり、弟は「小鳥の小父さん」と人々に呼ばれて・・・。慎み深い兄弟の一生を描く、優しく切ない、著者の会心作(解説・小野正嗣)。
小鳥はお兄さんの言葉を運んでくれているのだ、だからか弱い体でこんなに一生懸命歌うのだ、と小父さんは思う。すぐに別の一羽が新しい歌を歌いだす。続けて二羽、三羽と歌が重なってゆく。うつむいたまま、小父さんはじっとしている(本文から)。
原田マハ『太陽の棘』(文春文庫)。終戦後の沖縄。米軍の若き軍医(精神科)・エドワードはある日、沖縄の画家たちが暮らす集落・ニシムイ美術村に行き着く。警戒心を抱く画家たちであったが、自らもアートを愛するエドは、言葉、文化、何よりも立場の壁を越え、彼らと交流を深める。だがそんな美しい日々に影が忍び寄る。実話をもとにした感動作(解説・佐藤優)。
表紙の肖像画が魅力的。玉那覇正吉「スタンレー・スタインバーグ」。スタンレー・スタインバーグは現在93歳、サンフランシスコ在住の精神科医。24歳から3年半、沖縄の基地に勤務。当時スタインバーグと交際のあった玉那覇正吉、安谷屋正義、安次峯金正らは、後に沖縄画壇を代表する作家になる。
原田マハ『キネマの神様』(文春文庫)。39最独身の歩(あゆみ)は突然会社を辞めるが、折しも趣味は映画とギャンブルという父が倒れ、多額の借金が判明した。ある日、父が雑誌「映友」に歩の文章を投稿したのをきっかけに歩は編集部に採用され、ひょんなことから父の映画ブログをスタートさせることに。"映画の神様"が家族を救う、奇跡の物語(解説・片桐はいり)。
この小説の中にいくつか出てくる館名の中でたったひとつだけ実在する映画館、「シネスイッチ銀座」で、片桐はいりさんはかつて働いていたとのこと。そして、作者の原田マハさんは、実家近くの池袋文芸坐でバイトしていたとのこと。
還太郎は昭和47、48年頃、ほぼ毎週2回文芸坐に通っていた。1回は邦画を、2回目は洋画を見るためである。アパートとバイト先の次に時間を過ごしたのは、多分文芸坐ではないかと思う。映画館と、神田の古書店街で買った本を読みながらアパートで過ごした時間が、いま掛け替えのない思い出である。文芸坐は作家の三上寛が1956年に開設。株主は吉川英治、徳川夢声、井伏鱒二らで「文士経営」と呼ばれたとのこと。
最近、毎回のブログが長すぎるようで、それでなくとも少ない読者がさらに減少している気配あり。「拍手」も「コメント」も絶滅危惧状態。読者の皆様、ブログ作成の励みを賜るべく、良し悪しに拘わらず、見たよという印に末尾の「拍手」アイコンをクリックいただければと。
今日は東日本大震災から7年目。合掌。 それでは、皆さまお元気で !!
今回の短歌は正岡子規。テキストは「わが愛する歌人 第四集」(有斐閣新書・昭和53年刊)。解説は宮地伸一。
正岡子規、慶応3年9月17日~明治35年9月19日)。愛媛県出身。明治16年松山中学中退後政治家を志して上京。大学予備門に学び、東京帝大文科に入学したが中退し、明治25年新聞「日本」に入社。明治28年日清戦争に従軍記者として渡満。帰国の船上で喀血、以後病床に伏す。明治31年「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に掲載。病床に「根岸短歌会」をおこして、のちの写実主義短歌の源流をなした。
もののふの屍(しかばね)をさむる人もなし菫(すみれ)花咲く春の山陰
赤き牡丹白き牡丹を手折(たおり)けり赤きを君にいで贈らばや
明治31年、子規は歌論「歌よみに与ふる書」を発表し、続いて実作「百中十首」を世に示した。これを以っていわゆる短歌革新に立ち向かったのである。明治29年、30年は殆ど歌を詠んでいないが、その休止が契機となったのか、31年の大活動が始まり、「歌よみに与ふる書」は2月12日から10回、「百中十首」は2月27日から11回発表した。
大原の野を焼く男野を焼くと雉(きぎす)な焼きそ野を焼く男
古庭の萩も芒も芽をふきぬ病癒ゆべき時は来にけり
これらも「百中十首」から。百首の中から十首を、毎回選者を変えて選ばせたもの。子規にとって明治31年は生命の大いに躍動した年であり、輝かしい仕事をした年なのである。それまで休火山であったのを、突如として大爆発して天に高く噴煙を冲したという趣である。
霜防ぐ菜畑の葉竹はや立てぬ筑波根颪(おろし)鴈を吹く頃
人住まぬいくさのあとの崩れ家杏の花は咲きて散りけり
以上の6首は、「百中十首」の1回目の10首から。
くれないの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる (明治33年)
こういう歌が教科書のなかにあった。これは中学生の心に自然と沁み込んでいく写生の歌で、「針やはらかに春雨のふる」という細かい表現に心惹かれたが、それよりも一首全体ののびやかな調べが魅力的だった。
げんげんの花咲く原のかたはらに家鴨(あひる)飼ひたるきたなき池あり(明治33年)
これは、長く病床にいた子規が、たまたま心地のよい日に人力車に乗って亀戸まで外出した時の作。茂吉は『子規短歌合評』という本の中で、「この歌も平凡で、あたり前で、『きたなき池あり』などは人を馬鹿にしてゐるなどと評する向きも出現してゐるが、この『人を馬鹿にした』やうな平凡事が、従来の歌人には見えなかったのである。・・・・・身近くの『きたなき池』一つあるのが見えなかった歌人等の群れの中に、真の『きたなき池』が見えて、それを現に歌に表現し得た人は正岡子規であつたことを忘却してはならない」と言っている。
若松の芽だちの緑ながき日を夕かたまけて熱いでにけり(明治34年)
茂吉は昭和8年に、古事記以下明治の歌人までの百首を選んで解説した『新鮮秀歌百首』を刊行。子規からただ一首選ぶとすればこの歌になるということを茂吉は教えてくれている。茂吉は『近代秀歌五十首選』でも、明治以後の歌人五十人から一人一首を選んでいるが、子規のはやはりこの歌である。
臥しながら雨戸あけさせ朝日照る上野の森の晴をよろこぶ(明治32年)
実験的な意図が表面に浮き出ないで、「新」よりも「真」の要素が次第に色濃く出てきていると思う。平淡のうちに至味をたたえたもので、子規調とも言うべきものを成就している。子規に学んだ伊藤左千夫も長塚節も、他の門人も結局こういうさわやかな調子は受け継がなかったというべきではなかろうか。
車で15分ほどの山道を歩いていたら、崖下の大池の水中に黒い影が見えた。岩かと思って見ていると動いている。
ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ(明治33年)
調子がのびやかで、内容が純粋でここまで来れば申し分ない。「百中十首」の一種のごたごたした俳諧調が、2年後にはもうこんなに澄んでいるのである。これは万葉集を内面的に摂取した現われと見ることができようが、驚くべき変化だ。
魚たちが移動を始めた。
瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり(明治34年)
明治34、35年は病況が悪く、気力体力も衰えて、どしどし歌を発表するということもなくなった。しかし稀に作る歌はますます純粋になった。茂吉は「此歌を説くこと既に幾たびになるかを知らない。そこで此歌は有名になった。するとその反動として此歌はつまらぬ歌だといひ出した者が出て、それに追随する者さへ出た。目のあたり末世歌壇の悲惨な気持をおこされる事実であった」と言っている。
子規が身動きもできない病床にあって、『仰向に寝ながら左の方を見れば、机の上に藤を活けたる』という状況なのだから、『たたみの上にとどかざりけり』というのは一つの新しい発見であり、詠歎であるのはよく分かるが、何だか『みじかければ』『とどかざりけり』というきちっとした照応が気になったので、いまでもぴんと来ない。
いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春行かんとす(明治34年)
くれなゐの薔薇(うばら)ふふみぬ我が病(やまい)いやまさるべき時のしるしに(同年)
これらの2首を含む歌には、子規の「心弱くとこそ人の見るらめ」とのことわりめいた言葉が付いている。左千夫は「見るも涙の種なれども、道のためとて掲げぬ」と記している。子規の最高傑作である。既掲の「若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱いでにけり」もこの時のもの。
なまよみのかひのやまめは、ぬばたまの夜ぶりのあみに、三つ入りぬその三つみなを あにおくりこし(明治35年)
*「なまよみの」は「甲斐」にかかる枕言葉。「なまよみの」については諸説あるが、都留文科大学の鈴木武晴さんは山並みの姿がよいと説いている。
くれなゐの旗うごかして、夕風の吹き入るなべに、白きものゆらゆらゆらぐ 立つは誰ゆらぐは何ぞ、かぐはしみ人か花かも、花の夕顔(同年)
子規が死んだのは明治35年9月19日であるが、8月から9月にかけては短い長歌を幾つか作った。こんな純粋で透明な感じのする長歌は、和歌史上にも見られない。
麩の海に汐みちくれば茗荷子の葉末をこゆる真玉白魚
この歌は死ぬ半月ほど前の9月3日、新聞「日本」社長であり、隣家に住む陸羯南(くがかつなん)に宛てたもの。隣の陸家より碗盛りを御馳走されたのであろう。汁碗の様子を海にたとえて戯れている。こういう笑いの歌も若い時からの子規の持つ一面であった。この歌は新古今集の『夕月夜潮満ちくらし難波江の芦の若葉を越ゆる白波』を踏まえたもの。
このあと子規は『糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」等々の俳句は詠んだが、短歌はとうとう残さなかった。
今回は3冊の紹介。
小川洋子『ことり』(朝日文庫)。人間の言葉は話せないけれど、小鳥のさえずりを理解する兄と、兄の言葉を唯一わかる弟。二人は支えあってひっそりと生きていく。やがて兄は亡くなり、弟は「小鳥の小父さん」と人々に呼ばれて・・・。慎み深い兄弟の一生を描く、優しく切ない、著者の会心作(解説・小野正嗣)。
小鳥はお兄さんの言葉を運んでくれているのだ、だからか弱い体でこんなに一生懸命歌うのだ、と小父さんは思う。すぐに別の一羽が新しい歌を歌いだす。続けて二羽、三羽と歌が重なってゆく。うつむいたまま、小父さんはじっとしている(本文から)。
原田マハ『太陽の棘』(文春文庫)。終戦後の沖縄。米軍の若き軍医(精神科)・エドワードはある日、沖縄の画家たちが暮らす集落・ニシムイ美術村に行き着く。警戒心を抱く画家たちであったが、自らもアートを愛するエドは、言葉、文化、何よりも立場の壁を越え、彼らと交流を深める。だがそんな美しい日々に影が忍び寄る。実話をもとにした感動作(解説・佐藤優)。
表紙の肖像画が魅力的。玉那覇正吉「スタンレー・スタインバーグ」。スタンレー・スタインバーグは現在93歳、サンフランシスコ在住の精神科医。24歳から3年半、沖縄の基地に勤務。当時スタインバーグと交際のあった玉那覇正吉、安谷屋正義、安次峯金正らは、後に沖縄画壇を代表する作家になる。
原田マハ『キネマの神様』(文春文庫)。39最独身の歩(あゆみ)は突然会社を辞めるが、折しも趣味は映画とギャンブルという父が倒れ、多額の借金が判明した。ある日、父が雑誌「映友」に歩の文章を投稿したのをきっかけに歩は編集部に採用され、ひょんなことから父の映画ブログをスタートさせることに。"映画の神様"が家族を救う、奇跡の物語(解説・片桐はいり)。
この小説の中にいくつか出てくる館名の中でたったひとつだけ実在する映画館、「シネスイッチ銀座」で、片桐はいりさんはかつて働いていたとのこと。そして、作者の原田マハさんは、実家近くの池袋文芸坐でバイトしていたとのこと。
還太郎は昭和47、48年頃、ほぼ毎週2回文芸坐に通っていた。1回は邦画を、2回目は洋画を見るためである。アパートとバイト先の次に時間を過ごしたのは、多分文芸坐ではないかと思う。映画館と、神田の古書店街で買った本を読みながらアパートで過ごした時間が、いま掛け替えのない思い出である。文芸坐は作家の三上寛が1956年に開設。株主は吉川英治、徳川夢声、井伏鱒二らで「文士経営」と呼ばれたとのこと。
最近、毎回のブログが長すぎるようで、それでなくとも少ない読者がさらに減少している気配あり。「拍手」も「コメント」も絶滅危惧状態。読者の皆様、ブログ作成の励みを賜るべく、良し悪しに拘わらず、見たよという印に末尾の「拍手」アイコンをクリックいただければと。
今日は東日本大震災から7年目。合掌。 それでは、皆さまお元気で !!