無絃の琴を霊台に聴く(むげんのきんをれいだいにきく)
「無絃の琴を霊台に聴く」。絃の無い琴の音色を霊台(周の文王が建てた物見台、転じて天文台)。詩人の陶淵明は琴に弦を張らず、ただ眺めていたという。また菜根譚には「無絃の琴を聴き、無字の書を読む」という。要するに無窮の世界を言っている由。興味のある方は「弦の無い琴をひく」を検索願う。(今年のタイトルは漱石・草枕の難解熟語)
さて、今回の短歌は川田順。テキストは『わが愛する歌人 第四集』(有斐閣新書・1978年刊)。解説は橋本喜典。
川田順(明治15年1月15日~昭和41年1月22日)は東京都出身。城北中学、一高をへて、東大法学部卒業。住友本社に入社し常務理事となったが、昭和11(54歳)年実業界を引退。明治30年「竹柏会」に入門、佐佐木信綱に師事。大正13年、「日光」の創刊に参加。昭和17年歌集『鷲』によって第一回帝国芸術院賞受賞。昭和23年宮中歌会始の選者、昭和37年芸術院会員となる。
わがこころ環(たまき)の如くめぐりては君をおもひし初めに帰る
この歌は歌集『東帰』(昭和27年刊)の一首。この歌の「君」は京都大学教授中川与之助夫人俊子であり、俊子は当時39歳、順は67歳。二人の関係が発覚し、三者はそれぞれ懊悩の五百日を経て、漸く解決の話がでていた矢先、順は自責の念からか、遺書を知己に郵送して、亡き妻和子の墓前にて自殺を図った。結局、順と俊子は昭和24年3月に結婚し、国府津に住む。(最初の妻和子は昭和14年12月脳溢血で急逝。)
ツツジ。
夕顔や戸による母のおももちを幼な心にあやしみしわれ
これは処女歌集『伎芸天』(大正7年)の「根岸の思出』一連中のもの。順の父は宮中顧問官文学博士川田剛。生母はその父の側室で蔵前の商家の女、本田かね。そうことで順は父の家には住むことができず、生母と共に根岸の別邸に住み、明治26年生母の病没後は妹美佳子とともに牛込の本邸に引き取られた。
明治32年9月、第一高等学校文科に入学。島崎藤村、薄田泣菫らの感化でしきりに新体詩を作り、また近松、シェークスピアに興味を覚えて、それらの研究は爾後十余年に及んだ。
明治25年東大文科(英文科)に入り、翌年9月法科に転籍。当時、歌の師佐佐木信綱は「君の転科については自分はまことに遺憾に堪へないでかたくとどめたのであった。然し君は之を断行した。文科は去るが文学は捨てぬと、君は自分に答へた。」と記している。卒業後は住友本店(大阪)に勤務。
ツツジ。
寧楽(なら)へいざ技芸天女のおん目見(まみ)にながめあこがれ生き死なんかも
大阪へ移ってからは、しきりに近畿の名勝古蹟を巡っては歌を作った。歌は、「奈良へさあ出かけて、技芸天女のその目のいろをながめ、その美しさに憧れながら、生きそして死にたいものだ」の意。
布さらし秋のあしたの眼もさやに一すぢの水山より来(きた)る
これは「河内柏原」にて。発想は情緒的だが、順の眼が庶民の生活に向けられていることがわかる。凛然とした秋気を感じさせる冴えた歌だ。
ツバキ。
匠等(たくみら)は春のゆうべの床の上(へ)にあぐらゐ黙りはたらけるかも
唐招提寺の講堂の中で、仏師たちが黙々と古い仏像の修繕をしている様子を歌っている。
アヤメ。
鳴門の渦のまはりを渦なりに大きく廻って下りゆく船あり
大正8年9月、窪田空穂は大阪に一週間ほど滞在した。昼間は名勝古蹟を巡り、夜は順との歓談を楽しんだ。空穂は「私たちは同窓の学生が、何もかも知り合ひぬいてゐる者が、後年再びめぐり合つた時にのみ感じるやうな親しさと安らかさを、氏の家庭から得ることができました」と記している。この空穂との対面が一つの契機となって、順は浪漫主義から写実主義への転換を遂げていく。上掲の歌は『青淵』(昭和5年刊)から。
ツツジ。
わたの原秋近けれや天雲の寄り合ひのはてのいやはろかなる
ナノハナ。
薬師岳は朝日のさせる山腹(やまばら)に雪の斑点(まだら)の大きく粗き
これは歌集『鷲』(昭和15年刊)の「立山」の連作から。『鷲』は第一回帝国芸術院賞を受けた。
実業家としての順は、住友本社経理課長、住友製鋼所支配人、総本社総務部長を歴任後、『青淵』を上梓した昭和5年8月には常務理事に抜擢され、次期総理事の席が約束されているかのように見えていた昭和11年5月、突然辞職。以後、文筆家としての活躍はめざましく、歌集以外の著作も次々と刊行した。
ツツジ。
見上ぐらく山原のそらを飛ぶ鷲の大き翼の白班(しらふ)かがよふ
ボタン。
山空をひとすぢに行く大鷲の翼の張りの澄みも澄みたる
ツツジ。
立山の外山が空の蒼深み一つの鷲の飛びて久しき
ボタン。
大鷲の下(お)りかくろひしむかつ山竜王岳は弥(いや)高く見ゆ
ボタン。
川田順は「文科は去るが文学は捨てぬ」と言った通りの人生を生きた。凄い人がいたのだと、今回も勉強になった。
昨日・今日は夏日。昨年から今年にかけて「前期高齢者」と呼ばれるようになった同級生諸君、熱中症にも油断召されるな!!
さて、今回の短歌は川田順。テキストは『わが愛する歌人 第四集』(有斐閣新書・1978年刊)。解説は橋本喜典。
川田順(明治15年1月15日~昭和41年1月22日)は東京都出身。城北中学、一高をへて、東大法学部卒業。住友本社に入社し常務理事となったが、昭和11(54歳)年実業界を引退。明治30年「竹柏会」に入門、佐佐木信綱に師事。大正13年、「日光」の創刊に参加。昭和17年歌集『鷲』によって第一回帝国芸術院賞受賞。昭和23年宮中歌会始の選者、昭和37年芸術院会員となる。
わがこころ環(たまき)の如くめぐりては君をおもひし初めに帰る
この歌は歌集『東帰』(昭和27年刊)の一首。この歌の「君」は京都大学教授中川与之助夫人俊子であり、俊子は当時39歳、順は67歳。二人の関係が発覚し、三者はそれぞれ懊悩の五百日を経て、漸く解決の話がでていた矢先、順は自責の念からか、遺書を知己に郵送して、亡き妻和子の墓前にて自殺を図った。結局、順と俊子は昭和24年3月に結婚し、国府津に住む。(最初の妻和子は昭和14年12月脳溢血で急逝。)
ツツジ。
夕顔や戸による母のおももちを幼な心にあやしみしわれ
これは処女歌集『伎芸天』(大正7年)の「根岸の思出』一連中のもの。順の父は宮中顧問官文学博士川田剛。生母はその父の側室で蔵前の商家の女、本田かね。そうことで順は父の家には住むことができず、生母と共に根岸の別邸に住み、明治26年生母の病没後は妹美佳子とともに牛込の本邸に引き取られた。
明治32年9月、第一高等学校文科に入学。島崎藤村、薄田泣菫らの感化でしきりに新体詩を作り、また近松、シェークスピアに興味を覚えて、それらの研究は爾後十余年に及んだ。
明治25年東大文科(英文科)に入り、翌年9月法科に転籍。当時、歌の師佐佐木信綱は「君の転科については自分はまことに遺憾に堪へないでかたくとどめたのであった。然し君は之を断行した。文科は去るが文学は捨てぬと、君は自分に答へた。」と記している。卒業後は住友本店(大阪)に勤務。
ツツジ。
寧楽(なら)へいざ技芸天女のおん目見(まみ)にながめあこがれ生き死なんかも
大阪へ移ってからは、しきりに近畿の名勝古蹟を巡っては歌を作った。歌は、「奈良へさあ出かけて、技芸天女のその目のいろをながめ、その美しさに憧れながら、生きそして死にたいものだ」の意。
布さらし秋のあしたの眼もさやに一すぢの水山より来(きた)る
これは「河内柏原」にて。発想は情緒的だが、順の眼が庶民の生活に向けられていることがわかる。凛然とした秋気を感じさせる冴えた歌だ。
ツバキ。
匠等(たくみら)は春のゆうべの床の上(へ)にあぐらゐ黙りはたらけるかも
唐招提寺の講堂の中で、仏師たちが黙々と古い仏像の修繕をしている様子を歌っている。
アヤメ。
鳴門の渦のまはりを渦なりに大きく廻って下りゆく船あり
大正8年9月、窪田空穂は大阪に一週間ほど滞在した。昼間は名勝古蹟を巡り、夜は順との歓談を楽しんだ。空穂は「私たちは同窓の学生が、何もかも知り合ひぬいてゐる者が、後年再びめぐり合つた時にのみ感じるやうな親しさと安らかさを、氏の家庭から得ることができました」と記している。この空穂との対面が一つの契機となって、順は浪漫主義から写実主義への転換を遂げていく。上掲の歌は『青淵』(昭和5年刊)から。
ツツジ。
わたの原秋近けれや天雲の寄り合ひのはてのいやはろかなる
ナノハナ。
薬師岳は朝日のさせる山腹(やまばら)に雪の斑点(まだら)の大きく粗き
これは歌集『鷲』(昭和15年刊)の「立山」の連作から。『鷲』は第一回帝国芸術院賞を受けた。
実業家としての順は、住友本社経理課長、住友製鋼所支配人、総本社総務部長を歴任後、『青淵』を上梓した昭和5年8月には常務理事に抜擢され、次期総理事の席が約束されているかのように見えていた昭和11年5月、突然辞職。以後、文筆家としての活躍はめざましく、歌集以外の著作も次々と刊行した。
ツツジ。
見上ぐらく山原のそらを飛ぶ鷲の大き翼の白班(しらふ)かがよふ
ボタン。
山空をひとすぢに行く大鷲の翼の張りの澄みも澄みたる
ツツジ。
立山の外山が空の蒼深み一つの鷲の飛びて久しき
ボタン。
大鷲の下(お)りかくろひしむかつ山竜王岳は弥(いや)高く見ゆ
ボタン。
川田順は「文科は去るが文学は捨てぬ」と言った通りの人生を生きた。凄い人がいたのだと、今回も勉強になった。
昨日・今日は夏日。昨年から今年にかけて「前期高齢者」と呼ばれるようになった同級生諸君、熱中症にも油断召されるな!!