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霎時施(こさめときどきふる)

「霎時施」は24節気「霜降」の次候(10/28~11/1)。秋の時雨に、あたりが冷たく湿る頃の意。木々の葉も色づく。

 このところ週末の天候に恵まれない。今回は撮り溜めた写真から。今回は佐藤佐太郎の作品。佐藤志満選・香川末光解説。

 連結を終りし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音

 客観に徹して重い対象を見ている。その中に言い難い機微のある歌境が新鮮である。 
 s-紅葉20141103

 階(はし)くだり来る人ありてひとところ踊り場にさす月に顕はる 

 前後を言はず写象の中核のみに視点を据えている。現実客観へ作風の移行してゆく変化が見られる一首。
 s-菊④20151101

 北上の山塊に無数の襞見ゆる地上ひとしきり沈痛にして

 俯瞰する北上山塊の重厚なさまを沈痛と観た冷徹な気魄に力が漲っている、雄豪な歌境への進展である。
 s-菊③20151025

 空わたり来る鶴のむれまのあたり声さわがしく近づきにけり

 出水の鶴、自註に「胸さわぐような思いを下句は言い当てたように思った」とある、三句がそれを生かしている。
 s-菊②20151025

 白鳥の群れとびたちてひとしきり雪山の上ゆれつつわたる 

 瓢湖の白鳥、鶴の場合もそうだったがわざわざ見に行っている、見て真実を詠む以外架空で歌を作らなかった。
 s-菊20151025

 海の湧く音夜もすがら草木と異なるものは静かに眠れ  少女喘を病む

 孫娘を題材にした歌。「この頃はおもむくままに赴いて歌に音韻が添う」と自註してをり、着想も形容も自在闊達。
 s-サザンカ20141102

 鳥雀のごとたわいなく秋の日のいまだ暮れざるに夕飯を待つ

 60歳の作、昭和41年鼻の出血で入院以来体調を気にとめ摂生している、その哀感の自照である。
 s-ツワブキ20171029

 春ちかきころ年々のあくがれかゆふべ梢に空の香あり

 老境というには余りにもみずみずしい、あこがれと言い、梢の空の香と言い、衰えることのない感覚が新鮮である。
 s-ススキ20141103

 たちまちに過ぎし命をいたむなく順序よく死の来しをたたへん

 大切な仕事を為し遂げた人を詠んだ歌、道を述べた歌ではなく、深い生を賛嘆して格調がある。

 ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさんの「忘れられた巨人」を読んだ。以前読んだ「日のなごり」に次いで2冊目。書評家の江南亜美子さんの解説によると、『カズオ・イシグロの代名詞といえば「信頼できない語り手」。「日のなごり」の語り手の執事スティーブンスも、自身が長年忠義を尽くして仕えてきた相手への失望を自覚したくないあまりに、自分の心を偽って生きてきた男であった。』
 「忘れられた巨人」の話も、同様。山に棲む雌龍の吐く息が霧となり、それを吸った人々の記憶を日々奪っていくというのだから、語り手は常に自分の記憶力を疑いながら行動することになる。その霧が封印しているのは2つの民族が相争った戦争の事実であり、その霧のおかげで2つの民族が仲良く暮らしているのだが・・・。あまり語り過ぎないほうがいいかな。

 皆さま、お健やかにお過ごし願います。

菊花開(きくのはなひらく)

 「菊花開」は「寒露」の次候(10/13~17)。野菊の花が咲き始める頃の意。pan> 

 評は全て「茂吉秀歌」(佐藤佐太郎著より)。以下の写真10葉は10/9鹿島神宮で。

 s-鹿島神宮20171009

こがらしも今は絶えたる寒空よりきのふも今日も月の照りくる

 1933年、51歳のときの作。「こがらしも今は絶えたる」は、一日のこがらしが吹きやんだというのではなく、こがらしの季節が過ぎたというのである。「今は絶えたる」という言い方、「きのふも今日も」との関連において、そのように受け取れる。力量のある作家として当然のことだが、こまかな点まで神経がゆきわたっており、しかも言葉が永く切実にひびいている。眼に見えるものは月の光であり、晴れた夜空である。それに対して眼に見えない「こがらしも今は絶えたる」という一二句を据えた。これが自然の秩序を見たというものである。

 s-鹿島神宮20171009②

 たえまなくみづうみの浪よするとき浪をかぶりて雪消(ゆきけ)のこれり

 榛名湖の汀の歌。水に接して白雪の消え残っているのが自然のすがたの味わいである。不間断に寄せている浪の一つを捉えるように「とき」といい、浪を「かぶりて」といって、映画などの大写しの手法のように言葉の推移する趣に味わいがある。その韻文としての単純化された言い方に主観のひびきもある。

 s-鹿島神宮20171009③

 もも鳥のこゑする山のあかつきに大き聖はよみがへりたまふ

 比叡山での歌。「もも鳥」は百鳥、たくさんの鳥。「大き聖」は「大聖」、最澄伝教大師。茂吉は「伝教大師この暁天にあらはれたまふといふ気持ちである」といっている。この歌は清澄で塵世のよごれがないから、茂吉は色紙や半紙などにしばしば書かれた。

 s-鹿島神宮20171009④
 
 ただひとつ惜しみて置きし白桃(しろもも)のゆたけきを吾は食ひをはりけり

 果肉も甘未も香気もこめて、ただ「ゆたけき」といったのが叙情詩としての力量であり、暗示的な味わいである。

 s-鹿島神宮20171009⑤
 
 弟と相むかひゐてものを言ふ互(かたみ)のこゑは父母(ちちはは)のこゑ

 ものをいう自分の声、弟の声のなかに父の声があり母の声がある。肉親の絆というものを最も強く感じる瞬間がここにある。「互のこゑは父母のこゑ」という強い断定のなかに、断定のゆえに詠嘆がこもっている。短歌は詠嘆の形式だというが、その実行の美事な例はこの作者にある。

 s-鹿島神宮20171009⑥

  陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

 1934年の作。茂吉は「6月4日、舎弟高橋四郎兵衛が企てのままに蔵王山上歌碑の一首を作りて送る」と記している。「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ」という上句が蒼古として大きい。さらにいえば「聳えたまふ」というのは、霊山の麓に生を享けたこの作者でなければいえないだろう。虚にいて実を行うというとはこういう句である。渾沌とした高山の霊気を感じさせる。

 s-鹿島神宮20171009 ⑦

 ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり

 街頭嘱目の一首。感情のない機械であるトラックの動きの中に、たとえば人間の恥じらいのようなものを認めたのである。山川草木鳥獣以外の近代的無生物を対象に感情を移入したのが特殊でもあり新しくもある。

 s-鹿島神宮20171009⑧
 
 ゆふぐれのかぜ庭土をふきとほり散りし百日紅(ひゃくじつこう)の花を動かす

 「散りし百日紅の花を動かす」の「散りし」などは、確かにいうことが歌の味わいであることをいまさらのように思わせる。いままで人のかえりみなかった美しさの出ている歌である。

 s-鹿島神宮20171009⑨

  青葉くらきその下かげのあはれさは「女囚携帯乳児墓」(じょしゅうけいたいにゅうじのはか)
 
 東京品川の東海寺に散策した時の作。茂吉曰く、繁った若葉に隠されるやうにして、この「女囚携帯乳児墓」といふのがあるのを見つけた。ある篤志の婦ででもあらうか、悪因縁によって罪になった女囚に乳児がゐて、それが育たずに死んだのをあはれに思ひ、菩提を弔ふために建てた、いはば共同墓地である。この墓石の「女囚携帯乳児」いとふ文句が簡潔で哀深いのでその儘取つて用ゐた。

 s-鹿島神宮20171009⑩

 北とほく真澄がありて冬のくもり遍(あま)ねからざる午後になりたり

 1937年作。「北とほく真澄がありて」という上句は、見た実質だが、言葉が的確で、しかも簡潔で味わいがある。「とほく」など常凡のくわだておよばない言葉だろう。さらにいえば、上句の実質は人は見ることができる。しかし、「冬のぬくもり偏ねからざる」とまではいい得るとは限るまい。「見る」とは、このように現象の奥にあるものを見るのだということを人に考えさせるだろう。

 s-朝日2013
 以下の写真は以前撮ったもの。天候不順でこのところ撮るチャンスがないので。

 蕗の薹の苞(つと)の青きがそよぐときあまつ光を吸はむとぞする

 1940年作。鉢植えにして部屋に置いてある蕗の薹を詠んだものだが、ありなしの風が部屋に通って、蕗の薹の苞の葉のようなものがそよぐのだろう。蕗の薹が意志的に、日光に喜んで反応するように受け取っている。これもものを見る一つで、ゆとりある柔軟な観入と表現とは、おいおい老境に向かおうとする作者を感じさせる。

 s-水滴2013

 沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ

 1944年作。「沈黙」は戦後の悲哀に耐える作者の態度を代表する形態で、意識された「沈黙」であった。画家の描いた生物に対するように、「百房の黒き葡萄」という部分だけでも何かがある。その上「雨ふりそそぐ」という絵画にない「時間」が添っている。

 s-コスモス2013

 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

 1946年作。歌は蒼古で新鮮な万葉調で、単純に線が太い。「逆白波」という造語がいいが、一首の味わいは、この語によって簡潔のうちに豊富になっている。作者にはすでに「東風ふきつのりつつ今日一日最上川に白き逆浪たつも」(1928年作)という歌がある。

 s-ススキ2014

 老いづきてわが居る時に蝉のこゑわれの身うちを透りて行きぬ

 1950年、東京の自宅にいるときの作歌。作者は数え年69歳で、健康状態も良くなかったから、身に迫ったものとして「死」を思うのである。聞こえる「蝉の声」は、さながら自分の肉体に沁み、肉体を通りぬけて行くのだという。

 s-オクラ2016

 この山にとらつぐみといふ夜鳥啼くを聞きつつをればわれはねむりぬ

 「とらつぐみ」はツグミの仲間で、そのうちでは最も大きく、黄褐色の黒い斑が虎斑のようにあるので「虎鶫」という。「とらつぐみという夜鳥」といえば、そこに平凡ではない異常な感じがある。しかし、作者はその寂しい歌声を愛して、聞いているうちにいつか安らかに眠りにおちていったのであろう。安らかでもあるけれども寂しい歌である。心臓の関係かどうか、この夏は「夜もすがら寝ぐるしくて」という状態だった。

 s-紅葉2013

 10/11に春日部の自宅から掛け布団や冬服を持ってきたが、これが大正解。急に寒くなった。10/14は日帰り職場旅行で仙台へ。うみの杜水族館、キリンビール仙台工場などを見てきた。というか、往復のバスの中は酒場・・・。特に帰路はカラオケスナック状態・・・。

 皆さま、お健やかにお過ごし願います。

鴻鴈来(こうがんきたる)

 「鴻鴈来」は24節気「寒露」の初候(10/8~12)。冬鳥が飛来する時季。真鴈に菱喰、水辺に羽を休める姿が見られる頃の意。
 本日の写真は、アパートのお隣さんのお庭(撮影許可取得。トウモロコシ、キュウリ、ニンジン、レタス等々、しょっちゅう頂いている)と「わかぐり運動公園」の周辺で撮った。 
 さて、今回から斎藤茂吉[1882年(明治15年)~1953年(昭和28年)]。生涯に17,800首を詠んだ巨人。教本は「茂吉秀歌」(佐藤佐太郎著・岩波新書・1979年1月10日発行の第3刷・上下2巻、各320円・280円)


 いちめんに唐辛子あかき畑みちに立てる童(わらべ)のまなこ小さいし

 1912年作(30歳)。そのころ茂吉は「ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ」という歌も作っている。強烈な唐辛子の赤色という原色の中に立つ「まなこ小さい童子」、まさしくゴオガンの世界か。

 s-アルストロメリア20171008

 のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり

 1913年作。母の臨終が迫っているときの歌。作者は「世尊が涅槃に入る時にも有像がこぞって嘆くところがある。私の慈母が現世を去らうという時、のどの赤き玄鳥のつがいひが来てゐたのも、何となく仏教的に感銘が深かった」と述べている。 
 茂吉は15歳(1896年)で浅草の精神科医斎藤紀一の養子候補として上京し、後年娘婿となるが、この歌は実家の母に捧げたもの。

 s-バラ20171008

 ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しくふりにけるかも

 1914年作。秩父山中の作と作者は言っている。養母勝子(斎藤紀一氏夫人)の郷里が秩父の皆野だった縁か。この年、養家斎藤氏の長女輝子(19歳)と結婚。
 
 s-トンボ20171008

 あまがへる鳴きこそいづれ照りとおほる五月の小野(をぬ)の青きなかより

 1916年作。佐太郎は「二句切れの形態が、『鳴きこそいづれ』と清く緊まっていて、そして『照りとほる五月の小野の青きなかより』という、諧調音が実にこころよく、朗らかなうちにかすかに悲しみがただよっている。」と評している。
  
 s-チョウ20171008

 電燈の光とどかぬ宵やみのひくき空より蛾はとびて来つ

 1917年作。佐太郎は「蛾が『電燈の光とどかぬ宵やみ』の向こうから飛んできたという感受にはいままで人の見なかった新しさがある」と評している。この年の12月、長崎医学専門学校へ赴任。長崎での生活は3年3ヶ月に及ぶ。
 
 s-ダリア20171008

 こほりつつ流るるにかあらし豊かなるドウナウのみづの音のさびしさ

 1922年1月、ウィーン大学神経学研究所へ。ここで1年半、留学生として暮らす。1923年4月、論文「麻痺性癡呆者の脳カルテ」が完成。同年7月、ミュンヘン大学に転学し、24年10月医学博士の学位を得て帰国の途に就く。

 わが父が老いてみまかりゆきしこと独逸の国にひたになげかふ 

 1923年7月、実父守谷伝右衛門が逝去。9月には新聞で関東大震災の発生を知る。

 s-サフラン20171008

 おどろきも悲しみも境過ぎつるか言絶えにけり天つ日のまへ

 1924年11月、日本へ向けてマルセイユを出港。12月31日、婚家の青山脳病院全焼の無線電報を受ける。住居、財産、書籍が灰燼に帰したばかりか、多数の入院患者も焼死。
 
 s-マルバコウ20171008

 ひかりさす松山のべを超えしかば苔よりいづるみづをのむなり

 1925年5月、近江番場の蓮華寺に薩応和尚を見舞ったときの作。薩応和尚は、茂吉の郷里の山形県堀田村金瓶の宝泉寺の住職だった人で、茂吉は幼少のときから親しんで少なからぬ影響を受けた。

 s-ホトケノザ20171008

 さ夜けて慈悲心鳥(ぶっぽうそう)のこゑ聞けば光にむかふこゑならなくに 

 1925年5月末、木曽福島へ。茂吉の自註に曰く「さうして夜鳥のこゑは鶯のごとき光明に向かふ性質ではなくて、闇黒にむかって沁み徹るやうな性質に思われる。そこで、『光に向かふこゑならなくに』といひ表した」。

 s-紫の花②20171008

 浅草のきさらぎ寒きゆふまぐれ石燈籠にねむる雞(とり)あり

 1,928年作。佐太郎の評では「『きさらぎ寒きゆうまぐれ』というあたりは、『きさらぎ』も『ゆうまぐれ』でも実語であるが、声調のうえではかえって虚語のような働きをしている。実語の多い歌だが、声調は固くならずに流動しているのはそのためである。」

 s-何かな20171008

 よひ闇のはかなかりける遠くより雷(らい)とどろきて海に降る雨

 1931年、熱海で療養中の作。佐太郎の評では「『はかなかりける』からすぐ『遠くより』と続くところ、『遠くより』からすぐ『雷とどろきて』と続くところは実に簡潔でいい。散文に替えることのできない韻文の味わいである。結句の『海に降る雨』がまた簡潔である。現実そのままをいってこのように簡浄で厚みがあるのは、やはり表現の極致といっていいだろう。」

 s-黄色の花20171008

 あまつ日の白き光のまばゆきに合歓の延ぶるはあはれなりけり 

 1932年作。佐太郎の評では「真夏にのびる若葉・若芽にもいままで人の注目しなかった『あはれ』がある。思いきり言葉をのべて息長くいって、しかも『白き光のまばゆきに』というように充実しているのがこの作家の歌である。この句から、単に若芽がのびているというだけでなく、それが日光に透きとおっているありさまさえうかがえるだろう。」
 
 s-赤い新葉20171008

 燕麦(からすむぎ)のなびきおきふす山畑(やまばたけ)晴れたりとおもふにはや曇りける 

 同年作。弟高橋四郎兵衛と共に北海道天塩国志文内に次兄守谷富太郎を訪問した。8/10、上野を発って山形・上ノ山へ。8/12、上ノ山発、函館、旭川を経て、8/14、宗谷本線佐久駅着。雨の中を4時間歩いて志文内に到る。富太郎は僻村の医師をしているた。
  
 s-クリ2017108

 過去帳を繰るがごとくにつぎつぎに血すぢを語りあふぞさびしき 

 同じく志文内で。「16,7年振りの会合ナリ」とのこと。親戚の誰彼の消息を語り合ったが、「年老いつつ鴉を打ちて食ひしとふ貧しきもののことをかたりつ」、「おとうとは酒のみながら祖父よりの遺伝のことをかたみにぞいふ」という作もある。
 
 s-エノコログサ20171008

 山がはのみづの荒浪みるときはなかに生(い)くらむ魚(うお)しおもほゆ

 同年8/23、富太郎、四郎兵衛と共に層雲峡に遊ぶ。「山がは」は層雲峡を流れる渓流。この作者は木曾の山中に行っても、最上川の岸辺に立っても、そこに棲む魚のことを思う。

 s-サクラ20171008

 嘴(はし)ながく飛びゆく鵜等をみてをればところ定まらず水にしづみき

 同年9月、北海道旅行の帰途、十和田に寄ったときの作。佐太郎の評では「鵜は長い嘴の先が鋭く曲がっている。それをいったのが「嘴ながく」という一句だが、すぐ『飛びゆく鵜等を』と二句に続く表現は、平凡な歌人にはできないところだろう。こだわりなくたけだけしい行動を写した下句も見事である。」

今回は「茂吉秀歌」の上巻から。次回は下巻へ。2回では収まらないかな? それぞれの歌に背景の説明、或いは佐藤佐太郎の評を付記したが、やはり眼前の短歌だけでは解釈・味わいが浅くなると思うので・・・。

 10/7は土浦の花火大会。3~4km離れたところから見たが、辺りはレンコン田。視界を遮るものはなく、十分に楽しめた。上空330mまで上昇し、直径300mの大輪を咲かせる10号玉は圧巻。来年は桟敷席で見るぞ!
 皆さま、急に涼しくなりました。お気をつけてお過ごしください。

 
 

 

蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)

「蟄虫坏戸」は24節気「秋分」の次候(9/28~10/2)。虫たちが冬支度を始める頃の意。

 9/30はいい天気。アパートから10kmほどの距離にある「三ツ石森林公園」へ。散策路は手入れが行き届いている。

 さて、今回も啄木。このところ寝る前に啄木に関する評論を読んでいる。飽きない。ただ、暗い・・・。今回もs先輩から植物名をご教示いただきました。

 こしかたよ破歌(やれうた)ぐるま綱かけて悲哀の里を喘ぎ過ぎしか
 s-逆光②20170930
 
 うたふごと駅の名呼びし  柔和なる  若き駅夫の眼をも忘れず 
 s-逆光③20170930

 あめつちに  わが悲しみと月光と  あまねき秋の夜となれりけり
 s-三ツ石森林公園20170920

 人といふ人のこころに  一人づつ囚人がゐて  うめくかなしさ
 s-赤い実20170930
 ガマズミ。

 やはらかに積もれる雪に  熱(ほて)る頬(ほ)を埋むるごとき  恋してみたし
 s-白い花20170930
 ゲンノショウコ。

 あたらしき背広など着て  旅をせむ  しかく今年も思ひ過ぎたる
 s-トンボ20170930
 イトトンボ。

 ある日のこと  室(へや)の障子をはりかへぬ  その日はそれにて心なごみき
 s-黄色の花20170930
 キバナアキギリ。

 巻煙草口にくわへて  浪あらき  磯の夜霧に立ちし女よ 
 s-下り階段20170930

 不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて  空に吸はれし  十五の心
 s-逆光20170930

 啄木は明治19年(1886)2月20日、岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村曹洞宗日照山常光寺の長男として生まれる。
 明治28年(1895)、岩手郡渋民尋常小学校卒。首席の成績。同年盛岡高等小学校に進学。明治31年(1898)、盛岡尋常中学校(翌年盛岡中学校と改制)へ進学。128名中10位の高成績。
 明治35年(1902)、4年生の期末の成績は119名中82番。何とか5年生に進級したが、7月の試験でカンニングをし譴責処分を受ける。同年10月1日、雑誌「明星」に『血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここにさけぶ秋』が掲載される。10月27日「家事上の都合」を理由に盛岡中学校を退学し、文学で身を立てるべく上京。
 明治37年(1904)2月、父石川一禎が宗費113円余の滞納により、渋民村宝徳寺住職罷免の処分を受ける。明治38年堀合節子と結婚し、明治40年には長女京子が誕生するも、父親一禎が家出し一家離散。啄木は妻子を実家に預けて妹光子と函館へ。母は渋民村の知人に託した。明治43年には長男真一が1歳で早逝。明治45年(1912)に没するまで、啄木は貧窮と病弱と戦いつつ奮闘。明治46年5月、妻節子も肺結核で没した。(現代詩読本「石川啄木」・思潮社による)


 啄木には心安らぐ日があったのだろうか。或いは、歌を詠むことだけが救いか。次回は斎藤茂吉を予定。

 皆さま、お健やかにお過ごし願います。

 
プロフィール

kantarou + 6

Author:kantarou + 6
畑や庭での作業を楽しんで、晩酌・早寝・早起きの毎日です。読書やドライブも好きです。

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