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悪魔のような声と身ぶりで

☆今回は広告です☆ 

 今年、友人が翻訳した本が2冊、出版された。1冊目は『トム・ウェイツが語るトム・ウェイツ アルバム別インタビュー集成』 ポール・マー・ジュニア編(うから 2018・1・20)。もう1冊は『マリーンワン』 ジェームス・W・ヒューストン(小学館文庫 2018・3・11)。

 『トム・ウェイツが語るトム・ウェイツ アルバム別インタビュー集成』は3月11日の朝日新聞の書評欄で取り上げられた。評者は音楽家の細野晴臣氏(1978年、坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラを結成、1983年解散)。
 
               s-トムウェイツ  
 
 以下は、朝日新聞書評。PDF化された書評をいじくったらWordに変換できてしまった。

 悪魔のような声と身ぶりで繊細な歌を紡ぐトム・ウェイツは、とても演劇的なパフォーマーだ。それに惑わされるせいか、取っつきにくいという印象も拭えない。しかし本書を読み進めば、彼の音楽に向き合う真摯な姿勢や、他者に対する誠実さが明らかになる。
 1973年の衝撃的なデビューから2009年までの数多くのメディアによるインタビュー記事からその姿が浮かぶ。その真面目さは僕も初めて知った。彼は一見破滅的に見える音楽家だが、とくに結婚後は崇拝する作家ケルアックのような、荒んだ暮らしを実生活や芸術に組み込むことを良しとしなかったようだ。
 ウェイツはまた、いろいろな表現で語られることが多い。たとえば「ディランよりディランらしい」。こ のニューズウィーク誌の位置づけは、ボブ・ディランがスーパースターでなけれウェイツのように活動していたであろうと思わせる。「土曜の夜の詩人」とは、読書好きの彼がケルアックの列に並ぶ詩人という、もはやポップスの枠には収まり切らない作家性への称賛だろう。今の米国でこんな存在は他にいない、という評価でもある。
 一方、アルバムを多作し、ツアーを休まず続けてきたウェイツにも疲労や自作への「飽き」があったという。そもそもコメディアンの素養があったらしく、舞台での話術が歌を凌駕していったことも興味深い。映画にも出演し、自身でトム・ウェイツを演じてきた様が本書からうかがえる。
 とはいえ、まずはウェイツの音楽を聴いてほしい。印象とは裏腹に緻密なプロデュースがなされていて、音楽を魅力的に仕上げているのだ。そして彼の音楽愛好家という側面、それこそが秀逸な作品を創造する必須要素なのだろう。
 ウェイツは、多様な音楽を聴けば聴くほど音楽に敏感になる、と語る。作詞や作曲は技術だ。職人としてそれを麿くことが肝要ということだろう。共感する。


                s-マリーンワン

 作者のジェームス・W・ヒューストンは大学卒業後海軍に入り、精鋭中の精鋭のトップガンにまで昇進して除隊。その後、バージニア大学のロースクールに進み、弁護士の資格を取得。一時海軍に戻るが、カリフォルニア州のサンディエゴで弁護士活動を開始する。主に製造物責任法の訴訟に関わり、この分野で米国の最優秀弁護士10人のひとりに選ばれている。
 90年代後半から弁護士業の傍ら小説を書き始め、毎年1冊のペースで長編を発表していたが、2016年骨髄腫で死亡。(訳者あとがきから抜粋)


 海軍と弁護士活動の経験を活かした、リアリティに富みかつスピーディな話の展開に、読者は翻弄されること必至。寝不足になること請け合い。こちらも670頁の長編。還太郎は一時トム・クランシーの「ジャック・ライアン」シリーズやパトリシア・コーンウェルの「検屍官ケイ・スカーペッタ」シリーズを耽読したが、ジェームス・W・ヒューストンの作品が続いて出版されることを切望する次第。

 今回はこれまで。天候不順の折、皆さま、ご自愛願います。

乾屎橛(かんしけつ)

乾屎橛(かんしけつ)。禅語。伝統的にくそかきべらと解されてきたが、本来は乾いた棒状の大便。常識的な観念を打破するため、仏や禅僧の比喩として用いる。(今年のタイトルは漱石・草枕の難解熟語。)
 
 3/17(土)朝の愛車。夕べの雨で空中を舞っていた花粉が叩き落されたようで、花粉まみれ。還太郎は幸いにして花粉症には罹っていないが、これほどになると気持ち悪い。
 s-花粉症にかかりそう20180317

 今回の土日はいわきへ出掛け、妻の春野菜作りの作男兼お彼岸の墓参り。以下は、妻実家の庭の光景。農作業・墓参りで忙しかったので、今回は短歌はお休み。
 s-黄色の花20180317

 s-木蓮20180317

 s-水仙②20180317

 s-新芽20180318

 s-春陽20180318

 s-ツバキ20180318

 s-ツバキ②20180318

 s-ウメ20180318

 s-ウメ②20180318

 管理機(小型の耕運機)で畑を耕しても足跡を残さない方法、苗床とその上に張るクロマルチ(雑草の繁茂の防止、地熱の保持を目的にした黒色のフィルム)の「鏡面仕上げ」の訓練。中腰でやる作業も多いので腰がちょっと痛い。
 でも農作業は嫌いではない。農作業に関しては一日の長がある妻に追いつき追い越すべく、奮闘中 !! とにかく、目に見えるように細くなっているウェスト・サイズがうれしく、会社で日課にしている緑地帯の植木の剪定と農作業が楽しくなっているこの頃。

 温かくなったり寒くなったり、天候不順です。皆さま、ご自愛願います。 
 

澌尽礱磨(しじんろうま)

澌尽礱磨(しじんろうま)。「澌尽」は尽きてなくなること、すべてなくなること。「礱磨」は摺るとか砥ぐの意。漱石は『草枕』の中で「両者の間隔がはなはだしく懸絶するときには、この矛盾はようやく澌尽礱磨して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかもしれぬ」と書いている。(今年のタイトルは『草枕』の難解熟語)
 
 s-蕾20180310

 今回の短歌は正岡子規。テキストは「わが愛する歌人 第四集」(有斐閣新書・昭和53年刊)。解説は宮地伸一。
 正岡子規、慶応3年9月17日~明治35年9月19日)。愛媛県出身。明治16年松山中学中退後政治家を志して上京。大学予備門に学び、東京帝大文科に入学したが中退し、明治25年新聞「日本」に入社。明治28年日清戦争に従軍記者として渡満。帰国の船上で喀血、以後病床に伏す。明治31年「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に掲載。病床に「根岸短歌会」をおこして、のちの写実主義短歌の源流をなした。 
 s-蕾②2018310
 
 もののふの屍(しかばね)をさむる人もなし菫(すみれ)花咲く春の山陰 
 赤き牡丹白き牡丹を手折(たおり)けり赤きを君にいで贈らばや
 明治31年、子規は歌論「歌よみに与ふる書」を発表し、続いて実作「百中十首」を世に示した。これを以っていわゆる短歌革新に立ち向かったのである。明治29年、30年は殆ど歌を詠んでいないが、その休止が契機となったのか、31年の大活動が始まり、「歌よみに与ふる書」は2月12日から10回、「百中十首」は2月27日から11回発表した。
 s-蕾③20180310

 大原の野を焼く男野を焼くと雉(きぎす)な焼きそ野を焼く男
 古庭の萩も芒も芽をふきぬ病癒ゆべき時は来にけり
 これらも「百中十首」から。百首の中から十首を、毎回選者を変えて選ばせたもの。子規にとって明治31年は生命の大いに躍動した年であり、輝かしい仕事をした年なのである。それまで休火山であったのを、突如として大爆発して天に高く噴煙を冲したという趣である。
 s-冬残20180310

 霜防ぐ菜畑の葉竹はや立てぬ筑波根颪(おろし)鴈を吹く頃
 人住まぬいくさのあとの崩れ家杏の花は咲きて散りけり
 以上の6首は、「百中十首」の1回目の10首から。
 s-冬の残り②2180310

 くれないの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる (明治33年)
 こういう歌が教科書のなかにあった。これは中学生の心に自然と沁み込んでいく写生の歌で、「針やはらかに春雨のふる」という細かい表現に心惹かれたが、それよりも一首全体ののびやかな調べが魅力的だった。
 s-冬の残り20180310

 げんげんの花咲く原のかたはらに家鴨(あひる)飼ひたるきたなき池あり(明治33年)
 これは、長く病床にいた子規が、たまたま心地のよい日に人力車に乗って亀戸まで外出した時の作。茂吉は『子規短歌合評』という本の中で、「この歌も平凡で、あたり前で、『きたなき池あり』などは人を馬鹿にしてゐるなどと評する向きも出現してゐるが、この『人を馬鹿にした』やうな平凡事が、従来の歌人には見えなかったのである。・・・・・身近くの『きたなき池』一つあるのが見えなかった歌人等の群れの中に、真の『きたなき池』が見えて、それを現に歌に表現し得た人は正岡子規であつたことを忘却してはならない」と言っている。
 s-新芽④20180310

 若松の芽だちの緑ながき日を夕かたまけて熱いでにけり(明治34年)
 茂吉は昭和8年に、古事記以下明治の歌人までの百首を選んで解説した『新鮮秀歌百首』を刊行。子規からただ一首選ぶとすればこの歌になるということを茂吉は教えてくれている。茂吉は『近代秀歌五十首選』でも、明治以後の歌人五十人から一人一首を選んでいるが、子規のはやはりこの歌である。 
 s-新芽20180310

 臥しながら雨戸あけさせ朝日照る上野の森の晴をよろこぶ(明治32年)
 実験的な意図が表面に浮き出ないで、「新」よりも「真」の要素が次第に色濃く出てきていると思う。平淡のうちに至味をたたえたもので、子規調とも言うべきものを成就している。子規に学んだ伊藤左千夫も長塚節も、他の門人も結局こういうさわやかな調子は受け継がなかったというべきではなかろうか。
 s-魚影20180310
 車で15分ほどの山道を歩いていたら、崖下の大池の水中に黒い影が見えた。岩かと思って見ていると動いている。

 ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ(明治33年)
 調子がのびやかで、内容が純粋でここまで来れば申し分ない。「百中十首」の一種のごたごたした俳諧調が、2年後にはもうこんなに澄んでいるのである。これは万葉集を内面的に摂取した現われと見ることができようが、驚くべき変化だ。
 s-魚影②20180310
 魚たちが移動を始めた。
 
 瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり(明治34年)
 明治34、35年は病況が悪く、気力体力も衰えて、どしどし歌を発表するということもなくなった。しかし稀に作る歌はますます純粋になった。茂吉は「此歌を説くこと既に幾たびになるかを知らない。そこで此歌は有名になった。するとその反動として此歌はつまらぬ歌だといひ出した者が出て、それに追随する者さへ出た。目のあたり末世歌壇の悲惨な気持をおこされる事実であった」と言っている。
 子規が身動きもできない病床にあって、『仰向に寝ながら左の方を見れば、机の上に藤を活けたる』という状況なのだから、『たたみの上にとどかざりけり』というのは一つの新しい発見であり、詠歎であるのはよく分かるが、何だか『みじかければ』『とどかざりけり』というきちっとした照応が気になったので、いまでもぴんと来ない。
 s-キブシ20180310

 いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春行かんとす(明治34年)
 くれなゐの薔薇(うばら)ふふみぬ我が病(やまい)いやまさるべき時のしるしに(同年)
 これらの2首を含む歌には、子規の「心弱くとこそ人の見るらめ」とのことわりめいた言葉が付いている。左千夫は「見るも涙の種なれども、道のためとて掲げぬ」と記している。子規の最高傑作である。既掲の「若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱いでにけり」もこの時のもの。
 s-ウメ②20180310

 なまよみのかひのやまめは、ぬばたまの夜ぶりのあみに、三つ入りぬその三つみなを あにおくりこし(明治35年) 
 *「なまよみの」は「甲斐」にかかる枕言葉。「なまよみの」については諸説あるが、都留文科大学の鈴木武晴さんは山並みの姿がよいと説いている。
 くれなゐの旗うごかして、夕風の吹き入るなべに、白きものゆらゆらゆらぐ 立つは誰ゆらぐは何ぞ、かぐはしみ人か花かも、花の夕顔(同年)
 子規が死んだのは明治35年9月19日であるが、8月から9月にかけては短い長歌を幾つか作った。こんな純粋で透明な感じのする長歌は、和歌史上にも見られない。
 s-ウメ20180310

 麩の海に汐みちくれば茗荷子の葉末をこゆる真玉白魚
 この歌は死ぬ半月ほど前の9月3日、新聞「日本」社長であり、隣家に住む陸羯南(くがかつなん)に宛てたもの。隣の陸家より碗盛りを御馳走されたのであろう。汁碗の様子を海にたとえて戯れている。こういう笑いの歌も若い時からの子規の持つ一面であった。この歌は新古今集の『夕月夜潮満ちくらし難波江の芦の若葉を越ゆる白波』を踏まえたもの。
 このあと子規は『糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」等々の俳句は詠んだが、短歌はとうとう残さなかった。

 今回は3冊の紹介。
 s-本20180310

 小川洋子『ことり』(朝日文庫)。人間の言葉は話せないけれど、小鳥のさえずりを理解する兄と、兄の言葉を唯一わかる弟。二人は支えあってひっそりと生きていく。やがて兄は亡くなり、弟は「小鳥の小父さん」と人々に呼ばれて・・・。慎み深い兄弟の一生を描く、優しく切ない、著者の会心作(解説・小野正嗣)。
 小鳥はお兄さんの言葉を運んでくれているのだ、だからか弱い体でこんなに一生懸命歌うのだ、と小父さんは思う。すぐに別の一羽が新しい歌を歌いだす。続けて二羽、三羽と歌が重なってゆく。うつむいたまま、小父さんはじっとしている(本文から)。

 原田マハ『太陽の棘』(文春文庫)。終戦後の沖縄。米軍の若き軍医(精神科)・エドワードはある日、沖縄の画家たちが暮らす集落・ニシムイ美術村に行き着く。警戒心を抱く画家たちであったが、自らもアートを愛するエドは、言葉、文化、何よりも立場の壁を越え、彼らと交流を深める。だがそんな美しい日々に影が忍び寄る。実話をもとにした感動作(解説・佐藤優)。
 表紙の肖像画が魅力的。玉那覇正吉「スタンレー・スタインバーグ」。スタンレー・スタインバーグは現在93歳、サンフランシスコ在住の精神科医。24歳から3年半、沖縄の基地に勤務。当時スタインバーグと交際のあった玉那覇正吉、安谷屋正義、安次峯金正らは、後に沖縄画壇を代表する作家になる。

 原田マハ『キネマの神様』(文春文庫)。39最独身の歩(あゆみ)は突然会社を辞めるが、折しも趣味は映画とギャンブルという父が倒れ、多額の借金が判明した。ある日、父が雑誌「映友」に歩の文章を投稿したのをきっかけに歩は編集部に採用され、ひょんなことから父の映画ブログをスタートさせることに。"映画の神様"が家族を救う、奇跡の物語(解説・片桐はいり)。

 この小説の中にいくつか出てくる館名の中でたったひとつだけ実在する映画館、「シネスイッチ銀座」で、片桐はいりさんはかつて働いていたとのこと。そして、作者の原田マハさんは、実家近くの池袋文芸坐でバイトしていたとのこと。
 還太郎は昭和47、48年頃、ほぼ毎週2回文芸坐に通っていた。1回は邦画を、2回目は洋画を見るためである。アパートとバイト先の次に時間を過ごしたのは、多分文芸坐ではないかと思う。映画館と、神田の古書店街で買った本を読みながらアパートで過ごした時間が、いま掛け替えのない思い出である。文芸坐は作家の三上寛が1956年に開設。株主は吉川英治、徳川夢声、井伏鱒二らで「文士経営」と呼ばれたとのこと。
 最近、毎回のブログが長すぎるようで、それでなくとも少ない読者がさらに減少している気配あり。「拍手」も「コメント」も絶滅危惧状態。読者の皆様、ブログ作成の励みを賜るべく、良し悪しに拘わらず、見たよという印に末尾の「拍手」アイコンをクリックいただければと。

 今日は東日本大震災から7年目。合掌。 それでは、皆さまお元気で !!

円枘方鑿(えんぜいほうさく)

 「円枘方鑿」(えんぜいほうさく)は「円鑿方枘」(えんさくほうぜい)とも。物事がうまくかみ合わないことの譬え。「円鑿」は丸い穴のこと。「鑿」は穴をあけるという意味から、穴の意味にもなる。「方枘」は四角い枘という意味。「枘」は突起物。要するに、丸い穴に四角い棒を入れようとしても入らないということ(今年のタイトルは漱石の「草枕」の難解熟語)。
 今回の歌人は吉野秀雄。テキストは「わが愛する歌人 第二集」(有斐閣新書、昭和53年刊)。解説は片山貞美。

 吉野秀雄、明治35年7月3日~昭和42年7月13日。群馬県出身。生家は織物問屋。慶應義塾大在学中正岡子規の作歌と歌論に啓発されて短歌に志し、のちに会津八一に入門。終生病弱の上に家庭的な不幸にたびたび遭遇したが求道的作家生活を貫き、かたわら書道にもすぐれた。昭和33年読売文学賞、昭和42年第一回釈迢空賞などを受賞。

 s-白梅②20180304

 時あまりあたたかき酒を酌みゐしが出で来しちまた時雨降るなり(昭和11年)
詞句は古風だが、たとえば「時あまり」を二時間余と訳するには及ぶまいし、「ちまたに時雨降るなり」もあたかき酒」に応じて外気にふれた感じを読者は共感できる。「なり」など現代ではともすると古臭を発するが、こういう使用を見ると決してそうでないことがわかる。

 s-白梅20180304

 泰山木の高き梢に咲く花の花心をみむと二階より見つ(昭和13年)
泰山木の、見上げると高い梢に葉がくれになって咲いている玉碗のような花の内側の心(しん)を見たいものだと、二階に上がって覗き見た。「泰山木の」と六音で読むと、次の句「高き」とは少し離れるから作者の仰向くさまが現れる。「二階より見つ」の伏線である。「高き梢に咲く」とその通り空気がきれいだが、「花の花心を」に至って清浄でなまなましくゆたかな自然の本体にふれる思いをさせられる。「二階より見つ」はそれが現実のことであるのを言いおさえることで花の美しさをいっそう充実させている。

 s-赤い芽20180304

 「奈良博物館諸像」
 みほとけは五体失せにし心木もて千とせの末のいまもすがしき
み仏は頭・頸・胸・手・足がなくなってしまって、残った心木によってだが、千年も時のたった末の今でもすがすがしさに充ちておいでだ。

 s-新緑②20180304

 「東大寺三月堂」
 胸ひろに不空羂索(ふくうけんじゃく)立ちませば梵釈二光四王し控ふ
 不空羂索観世音を中心に、梵天・帝釈天・日光菩薩・月光菩薩・持国天王・増長天王・広目天王・多聞天王が前後左右に立ち並ぶ。まず「ふくうけんじゃく」という音声のひびきに発想の価値があろうし、つづく「ぼんしゃくにこうしおう」という渋い穏やかな音声は、かれが「立つ」に対しての動作「控ふ」に適応した表現となっている。

 s-新緑20180304

 「建長寺仏生会」
 春の雨大悲のごとく降り足れば老柏槇(ろうびゃくしん)の葉は雫せり
 春の雨はみ仏が衆生の苦を救抜したまう大悲を思わせてゆたかに降って万物うるおい、老樹柏槇の葉は雫をあまして滴っている。「大悲」とは「大慈」と並べて唱え、「慈」は衆生に楽しみを与えること、「非」は衆生の悲しみを抜くことを言う。
 一首の眼目は「大悲」であるが、「春の雨」「降り足れば」はその具体的な実現であり、「老柏槇」はその樹幹に百錬万鍛を経た人格を思わせて老巧だし、その葉は繊美で潤おい、その余沢は「雫せり」に描き尽くされる。

 s-紅梅20180304

 贅肉(あまりじし)なき肉(しし)置きの婀娜(たをやか)にみ面もみ腰もただうつつなし
奈良・秋篠寺の伎芸天を写した。「贅肉」を「余り肉」とくだき「たおやか」に「婀娜」の字を用いた。やまとことばに統一したわけであるが、そればかりでは異国渡来の趣味が失われるから漢字表現を加えたのであろう。実際を見れば「二百二、三十センチか、頭部は天平の乾漆製、体躯は鎌倉の寄木造り」といった乾漆面の享感と立像の日本人にはない体躯の量感をわたしは受け取るのである。「清純で端麗で、しかも婀娜なふぜいに富んでゐる」「あだっぽいうへに、さらに憂ひをふくみ、これがもろもろを悩殺する」と作者は言う。

 s-春を待つ20180212

 幼子は死にゆく母とつゆ知らで釣りこし魚の魚籃(びく)を覗くかす
昭和19年8月。作者の妻女が42歳で永眠。昭和22年になって発表された「これやこの一期のいのち炎立(ほむらだち)せよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹」は、歌壇の耳目を強く驚かした。

 s-紅梅③20180304

 重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け
「重吉」は詩人八木重吉。重吉の妻と作者は再婚した。一日、新夫婦は重吉の墓前に冥福を祈った。一首の表現は対象を叙するに素朴で率直であらわに明るく、作者の妻をいたわる誠実な気持ちがほとばしっている。

 s-紅梅②20180304

 「瑞泉寺の春」
 山陰の清水を祝ふ輪飾りは丹の椿咲く枝にかかれり
一首どことなく俳味が感じられ、これも吉野秀雄の特色である。「輪飾り」は季語であるけれども、季語だからといってただちに俳趣を帯びはしない。ただ対象が新年における寺の習俗のひとつであって、叙し方が純客観的で、いわば「花鳥諷詠」的なのである。
 s-春芽20180304
 
 蕾張る老梅の下の玉笹に年あらたなる日は射しにほふ(昭和8年)
印象が濃くて明快で、超俗的でもある。

s-ホトケノザ20180304

 虚子の居を厨より訪へば女中らが栗剥けり翁は栗飯食ふらし(昭和33年かな)
秀雄の文がある。「自分の歌集を持って虚子庵をおとづれたが、普請の最中だつたので、勝手口で翁の桃色のお顔を仰ぎ、数語交はしただけで辞去した。女中さんが二人、栗をむいていた。翁は栗めしを食べて一句作るのだろうかなどと思った」。
歌は文に書かれた事実そのままを写して直接端的。目前にするごとくで、しかも「らし」は作者の心裏を写したので虚子翁を目前にしていないさまである。想像裏に虚子の起居が現れる。作者は勝手口にあり、女中たちはその台所で栗をむき、奥では、となって場面は立体的となる。活写といってよい。
 s-ナズナ20180304

 3月4日、昨日に続き好天。アパートの部屋のシクラメンも伸び伸びしてる。  
 s-シクラメン20180304

 はるや春。皆さま、よい春をお過ごしください。
プロフィール

kantarou + 6

Author:kantarou + 6
畑や庭での作業を楽しんで、晩酌・早寝・早起きの毎日です。読書やドライブも好きです。

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