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暮れんとする春の色の、嬋媛(せんえん)として

暮れんとする春の色の、嬋媛として。「嬋媛」は美しく心ひかれるさま。(今年のタイトルは漱石・『草枕』の難解熟語。)

 今回の短歌は松倉米吉。テキストは有斐閣新書『わが愛する歌人 第四集』(1978年刊)。解説は田井安曇。
 松倉米吉 : 明治28年12月25日~大正8年11月25日。新潟県出身。明治40年高等小学校中退。鍍金工場に勤務。大正5年肺炎を病み休職。大正6年西洋洗濯業をへて、金属挽物職に奉公し、挽物職人となる。大正2年「アララギ」入社、古泉千樫に師事。その作品は病苦と闘う青春の苦しみと、愛を、確かな写生の目でとらえ表現している。

 吾の身の吾がものならぬはかな日の一年(ひととせ)とはなりぬ日暮待ちし日の

 松倉米吉は行路病者扱いで東京施療院で死んだ。数え年25歳。上掲の歌は美しい歌というような種類に凡そ属さないごつごつの歌だが、リズムは重くたゆたい、哀切である。「ヒトトセトハナリヌ」と9音で行き、更に「ヒグレマチシヒノ」と8音で結ぶ。「はかな日」の中身をもう一度言葉を替えてリフレインのように据えている。米吉は歌っているのである。決して叙述しているのではない。

 s-赤い実20180527 (1)
 ニワトコ果実。

 槌を打つ窓にをりをり椎の葉に陽の照りはゆる朝のうれしも

 米吉は新潟県頚城郡糸魚川町に生まれ。5歳で父を失い、11歳で親戚に預けられ、更には母が上京して再婚・・・と続く。松倉家は事実上ほろび、米吉はさながら孤児と化す。13歳で高等小学校を中退して上京し、母の婚家に寄寓し、メリヤス工場に就職。ただ母の死後、義父は本妻を呼び戻しているから、はたして正式の結婚であったのか、疑問である。

 s-緑の葉②20180527
 ネム。

 日除(ひよけ)にと粉袋かけて見たりけりあはれこの貧しさにあくまでふさはし

 大正4年4月号「アララギ」に、以下の2首とともに掲載された作品。この頃はまだ鍍金工場に勤務。それにしてもこの一連の貧乏への自信はどうだろう。「あはれこの貧しさにあくまでふさはしい」と「日除の粉袋」を言うことばかりではなく、謳われていてることは不安や歎きや困惑でありながら、しかもなお背骨をまっすぐ立てて昂然としてしているではないか。

 s-緑の葉20180527
 
 半月に得たる金のこのとぼしさや語るすべなき母と吾かな

 s-葉④20180527

 極まりて借りたれば金のたふとけれあまりに寂しき涙なるかも

 師の古泉千樫の米吉評。真率にして痛切なる、読むに堪へざらしむるまでである。実生活上如何なることにも失望せず、勇猛なる意志を以て自己を向上し改造することに努力して貰ひたい。内面的に突き進んだ歌もそこから自然に生まるると思ふ。

 s-葉③20180527
 ノゲシ。
  
 大川の宵の満ち汐闇ふかく波ふくよかにほの光りくも 

 大川は墨田川つまり荒川の下流をいう。この暴れ河も海へ出るところでは静かな川となり、その水面一杯に闇の向こうから潮が押してくる、それはよく見ればほのかに光となってふくらんで来る、というのである。このとき、米吉は22歳、5月に肺炎を病み数度の喀血を見ている。
 
 s-葉②20180527

 灯ともす街飯(いひ)煮ゆる匂ひうまければ涙ながれて母に帰るも

 大正6年の作品。もう米吉の晩年といっていいだろう。あと3年の猶予しかない。当時失業状態で病を養っていた。上掲の歌には「貧しさに家出を思ひて」と註がある。

 s-葉20180527

 今は言(こと)かよはぬか母よこの月の給料(かね)は得て来て吾は持てるを

 大正6年12月、母は死ぬ。死と給料を結び付けた歌はあったか知れぬが、それをかく哀切に誰が唄い得たろうか。

 s-白い花20180527
 ウツギ。
 
 下駄をはきつつ居れりとは知れど人目しげし顔さへ見ずに離るる切なさ

 米吉の最晩年、大正8年の作品。金属挽物業林氏方に転じ、人柄を見込まれてか養子分として働く。米吉は二人の娘のうち姉の登美子と恋仲になる。この暗闇の中の濃い朱の登場を彼のためにひそかに喜びたい感情にとらわれる。
 上掲の歌は、親方の家も貧しく、恋仲の娘はいま料亭への女中奉公に発とうとしている。それはわかっているのだが、人目を気にして見送ることもできず、仕事をしながらじっと気配を感じている職人の恋である。
 
 s-逆さの蜂20180527
 ウツギ。

 すずかけの広葉ひろはの雨に濡るる見て居る眼(まなこ)になみだながるる

 喀血はしばしばあり、一人胸にたたんで働くが前途は自ら知っていたのである。9月11日、アララギ会員山本氏の診察を受け「肺病」が確定。 
 s-赤い葉20180527
 
 かなしもよともに死なめと言ひてよる妹にかそかに白粉にほふ
 
 登美子が隠れて逢いに来た。「ともに死のうと言って寄り添う」登美子は料亭奉公であり、白粉がにおう。それが哀しいのである。

 s-青葉20180527
 コマツナギ。

 帰しなば又逢ふことのやすくあらじ紅き夜空を見つつ時ふる
 
 s-紫の花④20180527 
 シモツケ。

 待ちつかれ眠りたりしがうらさびし今まで来ねばなどか今日来む
 
 s-紫の花②20180527
 コマツナギ。
 ふたたびは暑さかへらぬ風らしもうすき布団に身をおしつつむ 

 s-紫の花20180527
 ノアザミ。

 この日ごろ窓ひらかねば光欲しほそくながるる夕日のよわさ

 s-陰翳③2018527
 アカメガシワ。
 ひそひそと外の面(とのも)には雨降るけはひ妻は乳ふさよもぬらすまじ

 孤独のうえに病が重なり、窓を開けてくれる手さえない。勤めの間を逃げるようにして当方へ歩んでくる登美子を幻想し、妻よ乳房を雨で濡らすなと呼ぶ。エロティシズムはここで慈悲とでも呼ぶよりないものに昇華し、絶望のうちに横たわっている米吉をほのぼのと浮かびあがらせる。 
 s-陰翳②20180527

 浪吉は吾の体を警察にすがらんと行きぬなぜに自ら命を絶ちえぬ

  「浪吉」は高田浪吉(明治31年~昭和37年)のこと。アララギ派同人であり、米吉らと共に「行路の研究」を発刊した。冒頭に米吉は「行路病者として東京施療院」で死亡と記載したが、「行路病者」とは「飢えや病気で旅の途中で倒れ、引き取り手のいない者。行倒れ」である。浪吉は米吉の生活の一切の面倒をみた。

 s-陰翳20180527

 昭和初年、中野重治は『芸術に関する走り書的覚え書』で、「斎藤茂吉と松倉米吉とは短歌史の最後のペーヂであろう」と言う。

 本日の写真は「三ッ石森林公園」と「雪入ふれあいの里公園」で。アパートから約10kmかな。昨日も今日もいい天気で有難かった。ところで、昨日、北方謙三の『チンギス紀』の「一」と「二」を購入。「一」は読了。「二」はこれから。やっぱり北方謙三は途中でやめられない。 皆さまのご健勝を願ってます。

  

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週末の近郊里山徘徊を楽しみつつ、足腰の衰えを防止しています。読書やドライブも好きです。

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